竹久夢二が、愛人の笠井彦乃と逢瀬を重ねるため、人目につかないようひそかに下落合で暮らしていたことは、ほとんど知られていない。日本橋の西河岸延命地蔵Click!の裏に開店し、離婚の話し合いが進む妻・たまきに経営をまかせていた「港屋絵草紙店」を飛び出して、彦乃との本格的な同棲生活が始められるよう、夢二はまず目白駅の外側、下落合に仮住まいを探した。そして、この仮住まいで夢二と彦乃は結ばれている。
 1915年(大正4)の春、夢二が借りた下落合の家がどのあたりだったのか、はっきりとはわからない。下落合に住んだ夢二は、わずらわしい外界とのコミュニケーションを断つかのように、笠井彦乃との甘い生活に没入していった。だから、手紙のやり取りもほとんどなかったのか、住所のわかる資料が見あたらない。おそらく、すでに婦人之友社の仕事はしていたのだろうから、目白駅からそれほど離れていないエリアのような気がする。でも、地元では「ここが、夢二が彦乃と住んだ隠れ家跡だよ」という伝承は、いまだ一度も聞いたことがない。
 下落合の仮住まいで暮らしはじめてから、彦乃とともに落ち着ける家を探していた夢二は、ほどなく雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)に転居する。現在の川村学園の裏あたりだ。この家から、当時は栃木高女を卒業したばかりの吉屋信子Click!のもとへ、夢二からの手紙が頻繁にとどきはじめる。信子の返信先は、「東京市外高田村雑司ヶ谷大原/竹久夢二先生御許へ」。夢二は、多いときには1日に2通も書いており、まるでメールストーカーのようなしつこさだ。夢二31歳、吉屋信子19歳の夏。そして、笠井彦乃も19歳だった。
 画家をめざした吉屋家の長男・貞一が、夢二と知り合いだった関係から、信子が東京へ出たがっているのを夢二は前から知っていた。1915年(大正4)6月14日を皮切りに、夢二は彼女へ次々と手紙攻勢をかけている。吉屋信子が書いたのちの手記から、このとき夢二は「港屋」の2階へ信子を住まわせて店を手伝わせ、彼女がかわいかったら愛人のひとりにしてしまおう・・・などと、不埒なことを考えていたらしい。信子のもとにとどけられた手紙のうち、数通は現存しており、夢二自身がデザインした和紙の便箋に、甘ったるい女筆のようなナヨナヨした文字が並んでいる。便箋とおそろいの封筒には、宛名書きのスペースを無視して、表面の中央に切手が貼られ、いかにも少女たちが喜びそうなシャレた体裁をしていた。
  
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 朝ごとに青葉のみどりが黒ずむでゆきます。お手紙をいたゞいてもう随分時がたつたやうにおもひます。御返事をかくひまがなかつたのではないのですが、静かに紙をのべる心持になれる日が今日までなかつたのでした。私身のうへのことは申上る必要もありませんが、とにかく私にとつてかなりたいへんな事だつたのです。それになにもかにもひとりのことをひとりでせねばならないので引越しをしてやうやう忙しいけれど今はやゝ静かになれました。(後略)
                         (竹久夢二「吉屋信子宛書簡」大正4年6月14日より)
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 なんとなく、肌が粒立ちしそうな文面をしている。まるで、少女から少女へあてたような気持ちの悪い手紙だ。文中にある「たいへんな事」とは、愛人の彦乃をめぐる妻・たまきとの争いのことで、このときすでに離婚問題にまで発展していた。たまきへ殴る蹴るの暴行を繰り返していた彼は、片や吉屋信子には歯の浮くような甘やかな文章を書ける男だった。
 当時の夢二は、婦人之友社から出る雑誌の、いまでいうアートディレクターのような仕事をしていた。休日になると、婦人之友社に隣接したコートでテニスを楽しんだりもしている。そして、雑司ヶ谷大原の家には、笠井彦乃が頻繁に姿を見せ、ふたりは半同棲生活を送っていた。そんな環境の中で、彼は吉屋信子あてに、まるで誘惑するような手紙を立てつづけに書いていた。信子が少し前、「婦人之友の記者になりたい!」と父母に訴えて許されなかったのも、どこかで夢二絡みの強い影響があったのかもしれない。
 
 のちに、吉屋信子は上京して夢二と会っているが、その直後から、彼女は夢二に幻滅していったようだ。勘の鋭い信子は、あっちの女こっちの女へともたれかかって生きる、彼のいい加減な“臭い”を敏感に感じとり、すぐに敬遠したのかもしれない。彼女の日記から「夢二」の名が消え、手紙のやり取りをしたことさえ消してしまいたい記憶となった。それほど、彼女から見た夢二という男は、“とんでもなく許せない男”だったのだろう。夢二側からも、信子へのアプローチは対面を機にピタリと止まった。彼にしてみれば、自分の思い通りになりそうもない、意志的で自我の強すぎる“とんでもない女”だったに違いない。
 吉屋信子の『私が見た人』(朝日新聞社)に、夢二と初めてあったときの様子が記録されている。
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 まもなく苺の氷水が私たちの前に運ばれ、夢二は真先にサクサクと音立てて匙を口に運びつつ「昨日は婦人之友社のテニスコートでテニスをしたが汗を流したあとは愉快だね」と言った。
 私は自分の大望の<少女小説>の一件を言いだそうかどうしようかと、ひそかに夢二を打診する気持ちで思い迷いつつ氷水が溶けてゆくのを見詰めていると・・・
 「ぼくたちのいまやっている<新少女>は、今までの実感的な少女雑誌とはまるで違ったやり方でゆきたい。大いに闘うつもりなんだ」
 (中略)「またいらっしゃい」と私たちに愛想を言われたが、それきり私は行くこともなかった。夢二を見た。それでもうたくさんだった。  (吉屋信子「竹久夢二」より)
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 のちに、下落合のアビラ村Click!へと移り住んだ吉屋信子は、C女史と同棲しつつ創作活動に没頭し、二度と夢二のもとを訪ねることはなかった。たった一度だけ、落ちぶれた夢二の展覧会へ出かけ、まるでカンパでもするように作品を1点購入している。東京へ出るきっかけを与えてくれた夢二への、彼女なりの“恩返し”のつもりだったのだろう。夢二のほうは、1916年(大正5)11月に雑司ヶ谷大原を引き払い、家出する彦乃を待つために京都へと旅立っていった。
 夢二と彦乃が連れ立って逍遥した仮住まいの下落合だが、東京市街を一望できる眺めのよい目白崖線(バッケ)上にも、ふたり並んでたたずんでみただろう。数年後、結核で死ぬ彦乃を連れた夢二のうしろ姿は、下落合では限りなく薄くてはかない。

■写真上:夢二が下落合の次に暮らした、高田村雑司ヶ谷大原(豊島区目白2丁目)の住宅街。
■写真中上:大正期に描かれた竹久夢二の作品。左から右へ、『新少女』(婦人之友社)の半襟デザイン、『春』、『待てど暮らせど』。わたしは、夢二のなよなよしてメメしい女性像がとても苦手だ。
■写真中下:左は、大正期の吉屋信子。二十代半ばのように見える。右は、松竹の撮影スタジオにおける吉屋信子(左端)。中央には田中絹代、その右には上原謙の姿が見える。
■写真下:左は、いつもポーズを欠かさない竹久夢二。右は、化粧する笠井彦乃(夢二撮影)。