山本周五郎ではないけれど、おそらくきょうの記事は「とん狂な失言」となるのだろう。下落合界隈の、あまりの急激な変わりように、わたしの記事も取材も追っつかない。(御城)下町Click!の記事が書きたいのをムズムズ抑えながら、これだけ下落合のテーマへ集中しているのに、その変化をリアルタイムで記録し書きとめることができないのだ。
 第三文化村Click!の風情をよく残した、「八島さんの前通り」Click!に面して建ち、大正期には医院を開業していて「下落合事情明細図」Click!にも記載のあるO邸が、アッという間に屋敷森ごと消えてしまった。笠原吉太郎Click!アトリエがあった、斜向かいの邸宅だ。消えたあとに出現したのは、またしても地ならしされた赤土がむき出しの地面。ほんの1~2週間ほどの出来事だ。
 「下落合みどりトラスト基金」Click!でお馴染みの、移築された旧・前田子爵邸が建っていた森は、ただ赤土が露出するだけの地面が残された。四ノ坂にあった刑部人(おさかべじん)Click!邸の、美しい建物とアトリエClick!が建っていたあとも、やはり赤土が露出する地面だけが残された。蔦のからまる美しいメーヤー館Click!は壊されずに移築されたとはいえ、コンクリートの基礎がむき出しの地面のみ残された。そして、今度はO邸の森が丸ごと消えてなくなってしまった。相続税でたいへんなのだろう、固定資産税を払いきれないのだろう、保存のために新宿区が提示した金額が低いのもいけないのだろう、一部分だけ保存するなんて都合のよい提案もよくないのだろう、古い屋敷をメンテナンスClick!するのに、とてつもなくおカネがかかってやってられないのだろう・・・。そんな事情を斟酌しない周囲は、ヒョーロン家のように言いっぱなしで無責任、かつなんとでも批評できる。




 でも・・・と失言するのだけれど、これだけ多くの緑と文化財的な価値のあるものたちを、下落合のかけがえのない景観として保存することができないものだろうか? これらの、山手空襲Click!をかろうじてまぬがれた、歴史的かつ記念的なものたちが消えてしまったあかつきに残るのは、下町と同様、ほとんどなにも残っていない「名所」だけだ。なにもないところに、人は集まろうとはしないし、ましてや、その歴史や謂われを熟知する人々は、その無残なありさまを見るにしのびなく、住みつづけようとさえ思わなくなるだろう。東京の下町が、わずか40~50年前に経験してきたことじゃないか。1960年代に起きた、下町から山手などへの「民族大移動」Click!がそれを証明している。こうして、東京の「ミーム(文化的遺伝子)」Click!は、エリアを変えて傷つき、壊れ、またしてもハングアップしかかった街が残るだけだ。
 先々週あたり、旧・林泉園Click!の北側尾根道にあった、桜並木の最後の生き残りである老木が伐られそうになった。伐ろうとしたのは、新宿区の西部道路公園事務所だ。「腐朽化」で倒木の怖れがあるとのことだけれど、補強もせずになぜすぐに伐採なのか? 樹木を伐ることばかり考えないで、残すことも考えよう。

 この桜の老木は、地元からの抗議でかろうじて伐採をまぬがれた。曲軒周五郎風にいえば、「桜の木は残った」だ。最後に、彼の好きな言葉を引用しよう。
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 日本人は「絶望」を知らない。絶望する前に諦観に入ってしまう。「絶望」は人間だけがもつことができる黄金である。  (「断片・昭和二十五年のメモ」より)
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 刑部邸にしろメーヤー館にしろ、なんら主体的な保存への関わりができなかったわたしの、あまたヒョーロン家的な無責任失言の数々、失礼いたしました。でも、たまには悲鳴をあげたくもなるのです。

■写真上:深い屋敷森が丸ごと消えてしまった、「八島さんの前通り」のO邸跡。
■写真中:上から順番に、旧・前田子爵邸の建物があったころと現状、四ノ坂の刑部人Click!邸と現状、移築されてしまったメーヤー館と跡地、第三文化村の面影が残っていたO邸の屋敷森と現状。
■写真下:中村彝アトリエClick!のある、旧・林泉園沿いの桜老木に貼られた伐採予告と現状。