江戸桜といえば、染井地域(現・巣鴨~駒込あたり)にあった広大な「染井園芸センター」で品種改良された、ピンク色も鮮やかなソメイヨシノが有名だ。(異説もあるけれど、最新の遺伝子調査によればこの説がいちばんリアル) 江戸後期、朱引き墨引きの拡大とともに、染井では造園職人や植木職人たちが集まり、改良技術を競う一大園芸センターが形成されていた。大江戸(おえど)Click!の街辻の津々浦々に、草花や盆栽などの鉢植え文化が浸透したのも、この樹木や草花のプロフェッショナルたちによる、優れた生産技術の存在が大きい。
 「染井園芸センター」の敷地は、苗木園だけでも直線距離で2キロメートル以上の道がつづいていたと記録されている。幕末に来日したイギリス人の植物学者ロバート・フォーチュンは、この巨大なグリーンビジネス地帯のことを『江戸と北京』の中で詳細にルポルタージュし、キューガーデン(ロンドン郊外の王立植物園)をしのぐ世界最大のフラワーセンターだと本国へ報告している。中には、南米産のアロエやサボテンまでが、すでに観賞用として栽培されていた。

 植木職人たちが苦心に苦心を重ねて改良をつづけたのであろう、大江戸のローカルな桜が、ではなぜ日本全国で咲いているのか? もちろん、江戸期に各藩が国許へ持ち帰り、大江戸のブームをまねて増やしていったなんて例もあるかもしれない。移封の際、新たな拝領地へ旧領の記念に株を持っていった例だってあるだろう。でも、それだけではこれほど普及はしない。
 明治以降、ソメイヨシノはおもに“戦勝桜”として、東京から全国へと配布されていった。日清戦争に勝って数百本、日露戦争に勝って数千本・・・というように、日本が戦争をするたびにソメイヨシノは地方へと普及していく。きっと「紀元2600年」(1940年・昭和15)のときにも、大量のソメイヨシノが全国に配られたことだろう。
 だから、わたしの祖父の代の方々に言わせれば、戦後は平和の象徴として全国に配られるようになったとはいえ、ソメイヨシノはどこか戦争の匂いがする桜なのだ。桜に罪はないけれど、ピンク色の向こう側に、どこか戦争のキナ臭い匂いが漂う・・・というところだろうか。セピア色の、のどかで懐かしげな写真Click!の向こう側に、カーキ色の「亡国思想」が渦巻いていたのとどこか似ている。
 
 わたしは、大江戸の優れた植木職人たちには悪いけれど、神田川沿いやお堀端に揃い咲きするソメイヨシノがあまり好きではない。桜は、関東在来種の白っぽくて優しげな自生のヤマザクラが好きだ。ヤマザクラは、その地域の土壌によっては白っぽい色ばかりでなく、さまざまな色合いで開花するらしいことを最近知った。
 いまごろ、湘南や鎌倉、三浦半島あたりの山々では、まるで山全体に霞がかかったようなヤマザクラの群生を観ることができる。ソメイヨシノは鮮やかで美しいけれど、なんとなく生命をいとおしまない気配が漂って、どこか哀しい。

■写真上:外堀沿いに咲き乱れるソメイヨシノ。
●地図:尾張屋清七版の切絵図「染井王子巣鴨辺絵図」(1854年・嘉永7)に描かれた染井地域。染井稲荷の西側に、「此辺染井村/植木屋多シ」という記載が見える。
■写真下:左は、目白崖線上から新宿方面を眺める。右は、神田川沿いの桜並木。