『落合町誌』(1932年・昭和7)にも登場する、アビラ村の下落合2113番地に住んでいた千葉医科大助教授の古屋(こや)芳雄だが、このキーワードをたどっていくと、面白いエピソードが下落合押しに、いや目白押しに出てくる。まず、洋画家の木村荘八や岸田劉生とのつながり。岸田劉生Click!のあまりにも有名な作品『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』(1916年・大正5)は、帝大医科を出たばかりの古屋芳雄当人を描いたものだった。わたしも、いままでまったく気づかずにいたのが恥ずかしい。またしても、劉生と目白・下落合とを結ぶ糸Click!の1本が見えてきた。
 古屋は、木村荘八Click!とともに文芸同人誌を出すほどの文学青年で、当時は世田谷の駒沢村に住んでいた。1916年(大正5)の7月、たまたま隣りに引っ越してきたのが、代々木から静養のためにより郊外へと転居してきた岸田劉生だった。古屋はさっそく劉生に、文芸雑誌『生命の川』の表紙デザインを依頼している。このころ、ほとんど寝たり起きたりの生活をしていた劉生は、少し元気になるとさっそく古屋に「首狩り」Click!を依頼している。こうして、劉生のデューラーやエイクへの傾倒ぶりが顕著な、名作『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』が誕生した。「志賀直哉の肖像」とは異なり、おそらく古屋は劉生のモデルをよくつとめたのだろう、キャンバスをメタメタにされることもなく後世に貴重な1作が残ることになった。この少しあと、劉生一家は藤沢Click!へ転居し、また古屋はのちに雑司ヶ谷、つづいて下落合へと引っ越してくる。
 古屋が邸を建設したのは、当時は「アビラ村」Click!と呼ばれていた下落合の西部(現・中井2丁目)、1925年(大正14)までは東京土地住宅(株)の宅地開発により、画家たちがこぞってアトリエ用地を購入していた一帯だ。金山平三Click!や満谷国四郎Click!(のち敷地売却)らの名前が見え、さらに昭和期に入ると松本竣介Click!や刑部人Click!、川口軌外Click!などのアトリエも建設されている。大正末に建設されたとみられる古屋邸は、わたしの見る限りではとてもていねいにメンテナンスされ、いまもそのままの美しい姿で現存している。
 
 この古屋邸の南角あたり、おそらく妙正寺川やバッケが原などが一望に見わたせる五ノ坂の下り口で、1925年(大正14)に夫の帰りを待ちながらたたずむ、ひとりの女性がいた。少しのち1930年(昭和5)に、平塚らいてうたちと「無産婦人芸術連盟」を結成する高群逸枝だ。
 ナカムラさんから先日、この記事を書く発端となったたいへん貴重なご教示Click!によれば、橋本憲三・高群逸枝夫妻はこの時期、下落合1445番地に住んでいた可能性もあるようだ。もし事実だとすると、高群逸枝は自宅から直線距離で2km以上離れた五ノ坂まで、経営が不安定な出版社(平凡社)に勤める夫の帰りを待ちわびて、迎えに出ていたことになる。とってもけなげな逸枝像がイメージされる。その後の、ナカムラさんとのアライアンスによる考察の進展・深化については、上記のリンク先ページのコメント欄を、ぜひご参照いただきたい。
 では、高群逸枝の『火の国の女の日記』(理論社/1965年)から、当該の箇所を引用してみよう。
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 (前略)この天井性の私との生活にも寛容とよろこびをもつようになった彼を、夕方ごちそうをつくっておいて、植木畑を抜けて古屋さんという学者の洋館の横で待っていると、彼が中井の田圃を通って下落合への坂道をのぼってくるのがうれしかった。下落合の日日は幸福だった。
                                      (同書「四二 下落合界隈」より)
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 夕方のごちそうをつくって、自宅(下落合1445番地)から2km以上も離れた五ノ坂まで迎えに出るかどうか・・・という点からすると、高群の自宅はアビラ村内にあったのではないかという想像も働く。ごちそうをつくってから、「植木畑を抜けて古屋さん」へとつながる距離感が、かなり短めに感じてしまうのだ。1926年(大正15)の「下落合事情明細図」を見ると、古屋邸の北と東側が植木畑だったのがわかる。そして、その植木畑の北東と、尾根筋の道の向かいにも、長屋らしい建物が何軒か見てとれる。界隈の様子を、高群は次のように活写している。
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 二人の再出発の家は下落合の高台の一郭、椎名町から目白方面にゆく街道筋にある長屋群の一つだった。この家も同郷の小山さんがみつけてくれたもので小山さんの近所だった。近くには森や畑が多く、私がよく鶏卵を買いにいった百姓家もあった。この一帯はそのころようやく新開地めいてきだしたところで、「芸術村」という俗称もあった。(中略)
 居間は南面し、すぐ前は植木畑であるのが私たちを和ませた。(中略)
 勝手口からすこし離れたところに四世帯共同の井戸があったが、そこには地下足袋をはいた職人ふうの人や荷車を引っぱった人や、物売りの人なども街道から立ち寄って水を飲んだり、休んだりしていた。(中略)
 窓から見えるものは大概は森であった。この森はひろく十里四方もつながっていた。それが秋になると一斉にがらんとしてしまい、街道や、村落や、堤防などが夢のように見え出してくる。 (同上)
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 これを読むと、「椎名町から目白方面にゆく街道筋」という表現は、下落合の西部よりも下落合1445番地のあたり、つまり販売されたばかりの第三文化村の南側あたりの描写にふさわしいように思える。でも、「芸術村」という表現は、「文化村」分譲地が近かった1445番地よりはむしろ、アビラ村の俗称のほうがフィットするように思える。また、「十里四方」の森や「堤防」の表現となると、目白崖線から氾濫を繰り返していた妙正寺川ごし、つまり下落合西部のバッケ(崖線)上から、東中野方面を眺めた景色を想像してしまう。さて、高群逸枝は五ノ坂で夫の帰りを待ちながら、どこで「夕方ごちそう」を作っていたのだろうか?
 
 もうひとつ、面白いことがある。本業が医学者だった古屋芳雄は、文学のほかに当時は美術にも興味を持っていたようだ。劉生の『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』のモデルをつとめた5年後、1921年(大正10)にベルギー人の詩人エミール・ベルハーレンの著作を翻訳し、『レムブラント』(岩波書店)を出版している。古屋が、雑司ヶ谷に住んでいた時代の仕事だ。同書は、下落合でずいぶん流行ったものか、宮本(中条)百合子も「獄中への手紙」Click!でのちに話題にしている。
 もちろん、下落合にアトリエを構えて住んでいた多くの画家たち、特に一時期、レンブラント風の作品を残している中村彝Click!や佐伯祐三Click!も、必ず目を通した1冊だろう。

■写真上:五ノ坂の下り口あたりで、左手につづく塀が旧・古屋芳雄邸。大谷石の築垣が途切れるあたりから、急激な下り坂となる。高群逸枝が夫を出迎えたのは、ちょうどそのあたりだろう。
■写真中上:左は、『火の国の女の日記』(理論社)。右は、世田谷町の高群逸枝・橋本憲三夫妻。
■写真中下:左は1926年(大正15)の「下落合事情明細図」、右は1936年(昭和11)の空中写真にみる、五ノ坂の古屋邸界隈。そこかしこに、武蔵野の雑木林や植木畑が拡がっている。
■写真下:左は、ベルハーレン著・古屋芳雄訳の『レムブラント』(岩波書店/1921年)。右は、岸田劉生が1916年(大正5)に描いた『古屋君の肖像(草持てる男の肖像)』(古屋芳雄像)。

▲五ノ坂の旧・林芙美子邸(解体前)