目白文化村シリーズの「吉屋信子の散歩道」Click!のところに登場した、ポーチのある河野伝設計によるN邸の詳細な資料が図書館で見つかった。1924年(大正13)に発行された、『主婦之友』2月号の文化村訪問記だ。2月号は1月に発売されるので、掲載時期からみて前年の暮れ、つまり1923年(大正12)に取材したことになる。この記事に目をつけた映画会社が、昭和初期に夏川静江をヒロインとする作品のN邸ロケーションを思いついたのかもしれない。もちろん、当時のN邸は1945年(昭和20)4月13日夜半の文化村空襲Click!で焼け、現存していない。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 1923年(大正12)といえば、箱根土地が第一文化村の販売を終え、より広い第二文化村を売り出していたころ、訪問記の表現を借りれば「現在約三分の二は買約済」となっていた時期だ。
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 目白駅から西へ十二三丁、乗合自動車の便をかりれば五分間で、目白文化村の入口に着きます。雑沓を離れた閑雅高燥の台地で、現在百七十七区画二万五千坪を包容せる一大住宅地であります。箱根土地株式会社の経営にかゝるもので、幹線たる数条の三軒幅道路は井然と縦横に貫き、その間を幾条かの小道路で連絡してゐます。建築はまだ数へるほどしか出来上つてゐませんが、何れも皆特徴ある様式を発揮したもので、完成後の総合美を想像させます。(中略)
 文化村の中央には運動場の設備もあり、テニスコート・相撲・柔道の道場等も設計されてゐます。またクラブも既に出来てゐるし、会社の広い庭園も公園の形をなしてゐます。
                               (同誌「目白文化村の一住宅を見る」より)
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 同年の9月に起きた関東大震災Click!による被害は、目白文化村に関していえばほとんど皆無だった。ちょうどこの訪問記が掲載されたころ、東京市内からの移住者が激増し、目白文化村やアビラ村の人気は沸騰することになる。記事には、「あれだけ酷かつた地震も、この村だけは見逃したやうであります。安政の昔も目白台は最も被害の少なかつたところだといひますが、今回もその通りでした。つまりこの辺りは地盤の最も堅いところなのであります。住宅地としてはまづ申分のない安全地帯であります」と、目白崖線上の揺れの小ささが記録されている。N邸も、大震災の被害をまったく受けていない。『主婦之友』の記者が、目白文化村(おもに第一文化村だと思われる)を目にしたときの様子を、つづいて引用してみよう。
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 文化村に出来上つた住宅、または今現に建築中の住宅は、とりどりに種々の面白い様式を競うてゐるように見えます。急勾配の高く尖つた屋根があるかと思へば極く緩かな低いのがあり、すらりと高い軽い気持ちの二階家があるかと思へば、帝国ホテルを思はせる低い重くるしい感じのする二階家があります。赤い屋根瓦が震災前の象徴であれば、緑の銅板葺は震災後の屋根を表現したものであります。白い漆喰塗の壁、黒い防腐剤の下見、純白なペンキ塗の窓、茶色な煉瓦の柱、それらが思ひ思ひに各建築物の外観に取入れられて、変化限りなき建築美と豊かなる色彩とで、道往く人の眼を惹き、野人の心を奪ふのであります。旧態を脱し得なかつたお隣の府営住宅と対照して何といふ皮肉でせう。 (同上)
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 そして、「それらのうちから、たゞ一つを取り出してその内部を細かに覗いて見ませう」と選ばれたのが、第一文化村のサンポーチ付き住宅として当初から有名なN邸だった。当時の室内を拝見すると、部屋のあちこちに彫刻やオブジェが置かれ、絵画が架けられているのがめずらしい。いまでは、めずらしくもなく違和感もない室内インテリアも、たとえば隣接する府営住宅などと比べれば、当時としては異様な光景だったろう。その「異様」さが数十年で「普通」となり、戦後になるとN邸のような建物は、もはや西洋館Click!とさえ呼ばれなくなっていく。
 8畳と4.5畳の日本間も畳は敷かれていたが洋風に造られていて、当時としては斬新なコーディネートだった。また、女中部屋が存在しないのも、当時の目白文化村では異色の住宅だった。つまり、N邸は女中をおかず家族で家事を分担していく、今日的な生活様式を先取りしていたということになるのだ。戦後、新たに建て直されたN邸には、広い居間に卓球台が置かれていて、ご近所の人たちの間ではピンポンをした記憶が鮮やかに残っている。

 余談だけれど、目白文化村には3つの水道タンクがあった。第一文化村と第二文化村の設置場所は明確だが、第三文化村の設置場所が不明のままだ。この記事にも、3つの水道タンクについて書かれているが、場所がはっきりしない。どこかの資料で、第三文化村の北側に建っていた目白会館の並びという記述を読んだ憶えがあるけれど、はっきりとした設置ポイントはわからない。どなたか、資料をお持ちであればご教示いただきたい。
 また、同年4月号の記事中には、ライト風建築で有名なK邸のめずらしい写真が掲載されている。独特なデザインのレンガ門から眺めた、1923年(大正12)現在の第一文化村・西北西エリアがとらえられている。三間道路の1本だった“センター通り”沿いには、いまだ住宅が建てられておらずオバケ道のあるあたり、西北西の一画には2階家がわずかに見えている。第一文化村内の家か、あるいは第四府営住宅の家並みかは不明だ。

■写真上:雑誌が出る前年に撮影されたと思われる、1923年(大正12)現在のN邸。
■写真中上:建築されてからほぼ1年後、1923年(大正12)現在と思われるN邸の間取り図と、左はサンポーチへの出入り口がある居間、右はサンポーチの一部に増設された子供部屋。
■写真中下:左は、目を惹く女性オブジェのある居間。右は、洋風に造られた日本間の寝室。いまではなんの変哲もない室内だが、大正期の住宅ではいまだものめずらしい光景だったろう。
■写真下:1922年(大正11)の撮影と思われる、K邸の門から第一文化村の西北西を眺めたところ。K邸のもっとも古い写真と思われ、南ウィングがいまだ建設されていない。