鎌倉を歩いていると、そこかしこで下落合ではお馴染みの名前に行きあたることになる。村山籌子Click!や吉屋信子Click!もそうなのだが、石橋湛山もそのひとりだ。東洋経済新報社へ入社して10年め、1921年(大正10)に鎌倉町の雪ノ下に家を建て、東京から引っ越している。その翌々年、関東大震災が起こり、石橋は鎌倉でボランティア活動へ積極的に従事し、翌1924年(大正13)には東洋経済新報に籍を置いたまま、鎌倉町議会議員に当選している。下落合の第二文化村へ転居し、朝鮮銀行副頭取の元・K邸へ住むことになるのは、もっとあとの話。石橋湛山は、短期間だが首相に就任したあと、目白文化村で1973年(昭和48)に死去している。
 鎌倉町雪ノ下にあった、石橋湛山邸のめずらしい写真が手に入った。わたしが近代建築に興味を持っているのを知っている、ある方からいただいたものだ。(上掲モノクロ写真) 早稲田大学に隣接していた石橋邸Click!も、目白文化村時代の石橋邸Click!もそうだが、彼の一貫した西洋館好みがうかがえる。しかも、鎌倉の家は『主婦之友』を毎号熟読しながら、掲載される家々を研究し、ときには紹介された家々へ実地見学にも出かけて、石橋自身がすべて設計したものだ。
 こんもりとした松林を借景として、スリムな西洋館は総建坪36坪ほどのこじんまりとした館だった。間取図を見ると、1階の食堂兼居間と子供部屋がかなり広く設計されている。しかも、子供部屋とは別に、専用の子供寝室が2階に設けられている。石橋自身の書斎はかなり狭く、子供たちを優先した間取りを考慮すると、彼はかなりの子ぼんのうだったに違いない。鎌倉時代には、すでに3人の子供たちが生まれていた。石橋のハイカラ好みは徹底していて、和室は女中の畳部屋を除いて1室もなく、すべて洋室でイスとテーブル、ベッドの生活をしている。

 
 『主婦之友』に毎号連載されていた、「実用的で住心地よい中流住宅」を深く研究しいてた石橋は、自宅の竣工後、取材に訪れた同誌の記者へさまざまな不都合を報告している。初めて設計した西洋館に対する、それは彼自身の“反省の弁”とでもいうべき内容だった。
◆反省1:部屋はすべて洋間としたが、和服の裁縫や洗濯物の仕上げに不便だ。洋室の板の間には、畳と違ってゴミが上に積もるため、その上に衣類を置くとすぐにゴミだらけになってしまう。
 掃除機のない当時、洋間の清掃はいまから想像する以上に面倒でたいへんだったろう。そこで、ふだんは使われていない応接室へゴザを敷いて、その上に乾いた洗濯物を置いていたようだ。
◆反省2:埋立地の上に家を建てるのは、やめたほうがいい。この家は、元田んぼの上に建っているのだが、地質が軟弱なために基礎の補強にたいへん苦労した。
 家の基礎工事には、かなりの手間とコストがかかったようだ。田んぼを埋め立てた深度だけ穴を掘り、その下に松の丸太(杭)を何本も打ちこんで固定してから、土丹岩を築いているのでおカネがいっぱいかかりました・・・と、さかんにこぼしている。
◆反省3:水道が敷かれていない土地には要注意。ここは水の便がよいという、地主と不動産屋の口車にまんまと乗ったため、井戸をいくら掘ったって良質な水など出やしないのだ!
 不動産屋や地主を信用しては絶対にダメ・・・と、今度はひどくご立腹だ。結局、鎌倉生活では井戸水を飲料用に使えず、買い水するハメになってしまった。家を建てる前には、必ず水質検査が必要なのと、雨水を活用できるバックアップ設備を、さかんに『主婦之友』読者へ奨めている。
 
◆反省4:設計を最初からきちんと固めておかないと、実際に建てはじめてからの変更は、よけいな費用がかかってムダ。『主婦之友』を読んで、じっくり研究したのに大失敗! それから、家の付属設備は親切な業者を選ぶこと。この家の設備業者は不親切で、わたしは不運でコマッタ。
 次々と出てくる石橋のグチのおおよそは、本人の不注意なのだけれど・・・。大工は評判どおり親切だったのに、設備業者はみんないい加減でウンザリしていたようなのだ。
◆反省5:家の中をペンキで塗ったのだが、ニスにすればよかったと後悔しきり。
 屋内の窓やドアを、すべて気に入った色のペンキで塗ったようなのだが、色彩に特別な思い入れのない場合は、絶対にニス塗りにすべきだと強くアドバイスしている。ペンキを塗ってもうまく仕上がらず、「始末におへぬものであります」と嘆息しきり。きっと、なかなか塗り面が乾かずに、家具や洋服がペンキだらけになってしまったのだ。
 こうして、『主婦之友』を欠かさず読んで研究に研究を重ねたすえ、不満は多々残るもののついに邸宅は竣工し、石橋湛山の鎌倉生活はスタートした。だが、それも関東大震災をはさみ数年で終わりをつげる。キナ臭い時代の波が、彼を東京へと連れもどしたのだ。のどかな鎌倉をあとにした先には、はてしない軍部との軋轢と、繰り返される内務省による廃刊の恫喝とが、石橋を待ちかまえていた。

■写真上:左は、1922年(大正11)発行の『主婦之友』2月号に掲載された、鎌倉町雪ノ下の石橋湛山邸。右は、旧・下落合の第二文化村にある石橋邸の現状。
■写真中:上は間取図、左下は1階の食堂兼居間で、右下は2階の寝室。
■写真下:左は、1階の広々とした子供部屋で、3人の子供たちが机に向かっているのが見える。右は、2階の屋根裏にあった石橋湛山の書斎で、かなり狭くて窮屈そうだ。