大正期にも、人気俳優や歌手を追っかける「パパラッチ」は存在していた。といっても、今日のように相手の承諾なしに追いかけまわし、プライバシーもヘッタクレもないような下品な取材はしていない。「カメラマンと記者が尾行しますから」と、あらかじめ本人に宣言し、都合のいい日を教えてもらい、つまり本人がいちばん追いかけられて「写真を撮ってもらいたいわぁ」という日を取材側に伝えるいわば“玄関取材”、今日の“しこみ”のような取材形式だった。だから、カメラマンの撮影にはいいポジションがあてがわれ、間違ってもピントがぶれてしまうような、みっともない写真は存在しない。このような有名人の「尾行写真」が、大正期の雑誌をにぎわしていた。
 当時の婦人向け雑誌に掲載された「尾行写真」は、ことさら評判を呼んだらしく、その後はシリーズ化されていったようだ。芸能写真誌の原点が、ここにある。たとえば記事は、「前号の森律子嬢と関鑑子嬢の尾行写真が非常に評判だつたので、記者はもつと面白い材料はないものかと、築地三丁目の河岸を歩いてゐると、有明館の前に五月信子と染め抜いた赤や青の旗を樹てた自動車が三台並んでいる。これはまた人気女優に出くわしたと喜んだ。早速後をつける」なんて、わざとらしい“まくら”からスタートしている。松竹蒲田撮影所の五月信子について、わたしは当時の高女出のインテリ女優ぐらいしか知識がないけれど、それほど人気が高かったのだろうか?

 「やがて勢よく乗り込んだのは新宿園、彼女の後からゾロゾロついてゆく幾百人の群集の中にまぎれて記者も行く」(①)と、見失わないよう必死であとを追いかけているような書き方だけど、最前列のいちばんいいポジションでシャッターを切ってたりする。まるで、川口隊長か藤岡隊長の番組を見ているようだ。五月信子がやってきた新宿園は、このサイトでも箱根土地の仕事として以前にご紹介Click!していた。亡命したロシアのバレリーナ、エリアナ・パヴロワが踊った「白鳥座」のあるところだ。箱根土地は目白文化村を造成した直後、国立へと本社を移転したころに新宿園を開園しており、おそらく同時並行で造成を進めていたのだろう。「園の野外劇場に立つて押寄せたファンに挨拶する」(②)、ここでもカメラマンは舞台裏の目立つ高い位置から、いいアングルでシャッターを切っている。

 「男衆を一人従へて邦楽座の五九郎劇に出演すべく楽屋入り」(③)と、新宿園から有楽町の邦楽座へともどってきたのだが、五月信子はなんと、ここでカメラマンに流し目をくれているではないか。「ちゃんと尾けてきてるかしら?」と、もう尾行はバレバレなのだ。男衆とは、ボディガード兼使い走りのような付き人のことらしい。大きな風呂敷包みから雨傘まで持って、彼女に付き従っている。「扮装中のところを一寸失敬」(④)って、それはないでしょう。ちょっと失敬もなにも、五月信子とカメラマンはどう見ても同じ部屋の中にいて、間近からパチリと写真を撮っている。もう、尾行もなにもあったものではなく、盗撮ならぬ強撮なのだ。

 「銀座の松屋呉服店の食堂で大きなバナナを一口ほゝばるのをパチリ」(⑤)、人気女優がバナナを食べているところを写真に撮りたいのは、80年前も現在も変わらないようで進歩がないのだ。(爆!) 婦人誌のカメラマンは女性ではなく、間違いなく男だろう。当時は、デパートへ来なければ高価なバナナは食べられなかったようだ。「松屋から出た一台の自動車で有明館へ帰つたところ」(⑥)と、どうやらこれでひと休みのようだ。五月信子の昼食は、してみるとバナナだったのかもしれない。

 「銀座松屋で催された化粧と結髪の実演のモデルに引つ張り出されて大もて」(⑦)と、またまた松屋デパートへ取って返してメイクアップモデルをつとめたあと、「お気に召した洋服を身体に合せて見たらおあつらへ向きに出来てゐるので早速買ひ求めた」(⑧)と、ついでにショッピングを楽しんでいる。それにしても、これだけ試着の位置に近ければ、いやでも尾行者に気づくだろう。


 「芝の桜田本郷町大場理髪館でおめかしを済ませて大場静子さんに玄関まで送られる」(⑨)と、美容院でおめかししてどこへ行くのかと思ったら、「その足ですぐ自動車を飛ばして赤坂の豊川稲荷へ大入人気をお頼みに」(⑩)と、お決まりの芸能人お参りコースへ。「神前に願をかける彼女と二人のお弟子」(⑪)。豊川稲荷をあとにすると、五月信子は芝浦へと向かう。「稲荷様を出て芝浦の御贔屓先へお礼廻りに行くと、町内総出で五月信子が来たと大騒ぎ」(⑫)。彼女は、町内総出となるほどの人気だったらしい。前日に、「明日の午後3時、五月信子がここを通るよ」なんて、前もって触れまわっていなければの話だけれど・・・。まるで歌舞伎役者のようにご贔屓筋をまわるのも、当時の女優の大きな仕事のひとつだった。

 「本郷の菊富士ホテルへ若婦人を訪ねる。若婦人は某華族の令嬢との噂。隣の部屋からそつとカメラを向ける」(⑬)・・・。「若婦人」とか「令嬢」とかいう表現は、とりあえずは書き手の好きずきなのでまあ見逃すとしても、隣りの部屋からそっと撮ったはないでしょう。カメラマンも、ふたりと同じ部屋にいるじゃん! この日はとっても暑かったのか、某華族の「令嬢」は額の汗をぬぐいながら、気さくに五月信子へ「ま~、この~、毎日暑いもんだわねえ、まいっちゃうんだわさ」(パタパタパタパタ)とでも言っているのだろうか。最後は、「『嬰児殺し』の一節を高橋義信氏とラヂオで放送するところ」(⑭)と、スタジオの中まで尾行して、なんとフラッシュを焚いて撮影している。
 こうして、女優・五月信子の1日が終るのだが、かなりのハードスケジュールといえるだろう。彼女の長い1日を追ってみると、宿泊している築地の有明館から、新宿(新宿園)→有楽町(邦楽座)→銀座(松屋デパート)→築地(有明館)→銀座(松屋デパート)→芝(理髪館)→赤坂(豊川稲荷)→芝浦(御贔屓廻り)→本郷(菊富士ホテル)→芝浦(JOAK東京放送局)→築地(有明館)と、東京市内各地を飛びまわっている。でも、この日はカメラマンと記者が「尾行」するというので、めいっぱい予定を詰めこんだスケジュールにしていたのではないか。「わたくし、こんなに忙しいのですわ」とアピールするのも、人気を煽る手法のひとつだったに違いない。
 その夜、「じょ~だんじゃないわよ、早く台本憶えなきゃ。あ~、疲れた。(男衆に向かって)ねえ、ちょいと、腰もんどくれ」なんて、言っていたのかもしれない。それにしても、気になるのは某華族の「令嬢」なのだ。いったい、誰?

■写真:1925年(大正14)の『主婦之友』に掲載された、五月信子の「尾行写真」の数々。