下落合はアビラ村Click!の金山平三アトリエClick!近くに住んでいたニットデザイナーで、妹の河合茂子とともに日本編物学園(現・河合ニットデザイン専門学校)を創立した佐伯周子Click!は、昭和初期の婦人雑誌へさかんに編物のデザインや、編み方の実際を連載している。講談社の『婦人倶楽部』も、執筆していたそんな雑誌のひとつだったようで、1930年(昭和5)の同誌7月号には、「新案毛糸編海水着の編方」という原稿を寄せている。
 でも、ちょっと考えてみると毛糸の水着って、いったいなんだろう? 毛糸で編んだ海水着なんて、肌にチクチクして着心地が悪いし、泳いで濡れたら濡れたでいつまでも乾かず、重たくて冷たくて気持ちが悪いにちがいない。どう考えても不快で、水着には適さない素材だと思うのだけれど、なんでもかんでも毛糸で編んでしまう“編み物ブーム”が、昭和初期にあったのかもしれない。
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 これからおひおひ水着を用意なさる方のために、外見や肌触りの上から最も理想的な、毛糸編の海水着をお勧めいたします。/出来上り図で御覧下さる様に婦人用のものは、今までの海水着と異つて衿が支那服のやうな筒衿になつてゐる事であります。地糸をコバルト色にして、中央に淡いラクダ色を模様に織り混ぜたものですが、地色を黒に、赤、青、黄といふ配色にして図案等もお好み通りになされば、一層美しいものが出来ませう。/また男子用のものは全部黒を用ひましたが、どちらも編方はメリヤスとガーターだけの、至つて簡単なものでございます。
                    (佐伯周子「婦人用・男子用の新案毛糸編海水着の編方」より)
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 いたってマジメな編み物記事なのだが、でき上がった水着のデザインを見ると、婦人用と男子用とでたいした差異はない。婦人用のほうが、やや上半身の肌を隠す割合が多いぐらいだろうか。婦人用には、コバルト色の中細毛糸10オンスとラクダ色の中細毛糸半オンスで、男子用には黒色の中細毛糸8オンスが必要だとか。これを着て実際に泳いだりしたら、毛糸が水を含んでズッシリと重たくなっちゃうし、編み方がヘタで編み目がゆるみ、スケスケになってしまったらどうするのだろう。岩場で毛糸がほつれ、ほころびの糸を引っぱったらメリヤス編みが次々とほどけて・・・と、あらぬことを想像してしまう。それはそれで、また楽しいシチュエーションではあるのだが。(^^;
 同じ『婦人倶楽部』7月号には、下落合に終生住みつづけた女性アルピニストの草分けで、のちには料理研究家ともなる黒田はつ子(初子)の山登り記事が載っている。夏の避暑や行楽をテーマに、文学者や教師たちとの座談会に参加しているのだが、“海派”と“山派”とに分かれて、お奨めの夏旅行を紹介するという趣向だ。黒田は、秩父から入る笛吹川の上流、西沢と東沢を推薦している。
 女性が本格的な登山をするのが、いまだめずらしく奇異に感じられていた昭和初期のころ、黒田はつ子の存在はかなり特別なものとして映っていたのだろう。旅行や登山に対する、女性の用意や心得、注意などの話になると、座談会の記者は真っ先に彼女へ質問している。
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 女でも男と同じで宜しいと思ひます。唯道伴れが女だけですと、山の小屋などに泊る時に一寸物騒なやうな気が致します。矢張しつかりした男の道伴れの方と一緒に行かなくちや、一寸女学生や何かだけでガイドを雇つた切りでは無理かと思ふのです。外にどういふ山に行つたらいいかと云ふことは、男でも女でも山に対する力の程度ですから、女だからというて別に変へる必要はないやうな気が致します。  (同誌「避暑と夏の旅座談会」より)
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 「女でも男と同じで宜しい」という考え方、婦人参政権を求める決起集会が、日本各地でさかんに開かれていた時代を象徴する言葉だ。一部の特権階級やおカネ持ちだけの楽しみだった、山登りや海水浴が市民の間にも浸透し、「観光旅行」や「避暑旅行」といった概念が一般化したのも、ちょうどこのころのことだったろう。この『婦人倶楽部』7月号が出た翌年、1931年(昭和6)の帝国議会では、婦人参政権の条件付き法案が衆議院を通過するが、保守的で旧態然だった貴族院の猛反発で、早々に廃案へ追いこまれている。
 大正デモクラシーをへて、家族連れや若い男女が海へ山へ、続々と繰り出しはじめていた時代の雑誌は、誌面がハツラツとして読んでいて楽しい。わずか15年後に、日本の破滅がやってくるなど想像だにできず、明日はもっといい時代が来るにちがいない・・・そんな予感に満ちていた様子が伝わってくる。でも、毛糸の水着だけは、どう考えてもカンベンしてほしいのだ。

■写真上:当時の代表的な水着スタイル。これは、さすがに毛糸製ではなさそうだ。
■写真中:左が婦人用のニット海水着で、右が男子用ニット海水着。海水を吸ったら、乾いてもゴワゴワしそうだが、当時の最先端モードのひとつだったのだろう。
■写真下:左は、座談会の黒田はつ子(初子)。右は、槍ヶ岳の小槍絶壁を登攀中の様子(×印)。