いつもナカムラさんが貴重な情報をお寄せくださる、画家・竹中英太郎の下落合暮らしについて、ちょっと書いてみたいと思う。ある出版社の編集者の方から、わざわざ竹中英太郎に関する資料をお送りいただいた。2006年に出版された、備仲臣道の『美は乱調にあり、生は無頼にあり~幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)だ。
 竹中英太郎は、1923年(大正12)の関東大震災で大杉栄と伊藤野枝、そしてわずか6歳の橘宗一が憲兵隊に虐殺Click!されたのを知ると、当時暮らしていた熊本で激昂する。口の中を噛み切り、出血するほどの怒りだったようだ。竹中は、大杉たちを殺した権力へ報復するために、要人暗殺を決意し懐中に匕首を呑んで、同年の12月に東京へとやってくる。落ち着き先は、熊本出身者が集まって住んでいた、下落合の「熊本村」だった。
★のちに、竹中英太郎が東京へとやってくる上記のような経緯は、息子・竹中労がさまざまな著作の中で創作した「竹中英太郎伝説」Click!のひとつらしいことが判明している。
 のちに作家となる小山勝清の世話で、小山宅から畑をはさんで建つ1軒家を、竹中は借りて住むことになった。当時、下落合の「熊本村」(下落合2191~2194番地あたりと思われる)には小山をはじめ、橋本憲三や高群逸枝Click!、平凡社の下中家三郎、映画脚本家の美濃部長行などがせわしなく去来している。その様子を、同書の中から引用してみよう。
  ●
 英太郎は下落合に家を借りた。一九二九(昭和四)年に淀橋区(現・新宿区)となるこの一帯は、まだ豊多摩郡落合町であったが、早稲田通り方面から緩やかな勾配で下ってきた台地が、下落合に入ると妙正寺川で一番低くなり、そこから河岸段丘を上がり北の台地へ向かってなだらかな上りになっている。新宿方面は繁華な町並みになりつつあったけれど、下落合辺りはまだ田舎で、あちこちに畑があった。(中略)/熊本出身者がかたまって住んでいる一帯があって、さながら小さな自治区のようであった。その先鞭をつけたのは小山勝清である。(中略)
 そこへ要人暗殺を企てた英太郎が、牛原のつてで小山を頼ってゆき、暗殺失敗後もそのまま居着くことになって、小山の世話で彼の家とは畑をへだてた隣りに一軒を借りた。(中略)/下落合の熊本出身者の世界では、誰かが家を借りると、たちまち一人か二人の文学青年やアナーキストが居候に入り込む。それが、ごく普通のことになっていたから、仲間内の者は、ひもじい思いはしながらも、なんとか命をつないでいくことができた。 (同書「下落合の『熊本自治区』に住んだ」より)
  ●
 この文章の中で、「豊多摩郡落合町」と書かれているけれど、竹中英太郎が住み着いた1923年(大正12)当時は、いまだ豊多摩郡落合村だったはずだ。
 
 東京へとやってきた竹中は、なぜ下落合に住もうと思ったのだろうか? いちばん大きな理由の1つは、もちろん知人から紹介された「熊本村」の存在だった。竹中自身は、福岡出身で熊本の出身者ではないけれど、彼が熊本県下で労働運動に関係していたことから、東京の「熊本村」を紹介されたらしい。当時の九州出身者は、なぜか東京では集まって居住する傾向がみられ、別に下落合以外にも東京各地には「九州村」は存在していたようだ。
 資料をいただいた編集者の方から、ついでに面白いお話をうかがった。明治以降、東京の新しい地名で「東」+「九州地名」が付く一帯は、もともと九州出身者たちがかたまって住んでいたところが多いとのことだ。「熊本村」のあった下落合だが、残念ながらそのような地名は近辺には残らなかった。また、下落合の近くには、長崎という地名があり「東長崎」という駅名も存在するけれど、長崎は江戸期からつづく古い地名なので、いちがいに「東○○」の法則は当てはめられない。
 竹中が下落合に住んだ2つめの理由は、当時の東中野から大久保、落合地域にかけては、アナーキストやコミュニストたちが集うメッカClick!だった・・・という事情もあるだろう。特に、中央線東中野駅から上落合へと抜ける道は「東中野プロレタリア通り」、左翼思想の芸術家たちが多く住んだ上落合や下落合を総称して「落合ソビエト」・・・などと呼称されることになる。昭和初期にはナップClick!が結成されるなど、落合地域はプロレタリア文学運動の中心地だった。
※「東中野プロレタリア通り」あるいは「落合ソビエト」という呼称が、意識的に落合地区で遣われはじめたのはナップ成立前後の昭和初期からではないかというご指摘を、ナカムラさんよりいただきました。おっしゃるとおりですので、「2つめの理由」は竹中英太郎の頭の中には形成されていなかったものと思われ、訂正いたします。以下、コメント欄をご参照ください。
 理由の3つめは、大杉栄や伊藤野枝たちの遺体が焼かれた、落合火葬場(現・落合斎場)がすぐ近くにあるから・・・という“想い”もあったのかもしれない。古井戸から掘り出された3人の虐殺遺体は、1923年9月25日に落合火葬場へと到着し荼毘にふされている。大杉ばかりでなく、幸徳秋水など「大逆事件」で死刑になった活動家たちをはじめ、当時の作家や文化人たちの多くも落合で火葬にされている。その火葬の煙を窓から眺めながら、多くの芸術家たちは作品を産み出していた。
  
 大正末にテロリストをめざした竹中は、やがて平凡社の『社会思想全集』(1929年~)の装丁や、プラトン社の『苦楽』の挿画を担当するなど、下落合でまったく違う方角へと歩みはじめることになる。ほんの一時期、川端龍子の画塾へ通っていたようだが、竹中の絵はデッサンを基礎とするアカデミックなものではなく、「芝居小屋の絵看板を手本にした」と伝えられている。だからこそ、オリジナリティあふれる竹中ならではの表現世界を産み出すことができたのだろう。江戸川乱歩や甲賀三郎、横溝正史、夢野久作、三上於菟吉などの作品へ次々と挿画を描きはじめ、読者の人気をさらうのにそれほど時間はかからなかった。
 もともと竹中英太郎は、画家として生きようとしていたわけではなく、生活のために小説の挿画を手がけはじめた。だから、後世に作品を残すことなど思ってもいなかったろう。ましてや、「怪奇と幻想の画家」などと呼ばれることの多いこのごろ、竹中はどこかで苦笑しているのかもしれない。

■写真上:左は、ちょうど四ノ坂と五ノ坂の中間あたり、現在の「熊本村」界隈の様子。右は、竹中英太郎による江戸川乱歩『陰獣』挿画。(東京創元社「日本探偵小説全・集2巻/江戸川乱歩集」より)
■写真中:左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる「熊本村」あたり。右は、1936年(昭和11)に撮影された同所。小さな家々が、建ち並んでいる様子がとらえられている。
■写真下:左は、落合火葬場へと運び込まれた大杉栄たちの遺体。棺の側面には、上から「宗ちゃん・栄・野枝さん」の文字が見える。(朝日新聞より) 右は、リニューアルされた落合斎場の本館。