下落合(現・中落合)の六天坂Click!下に、「草津温泉」という銭湯があった。現在でも、「ゆ~ザ中井」として存続しているが、大正期から昭和初期にかけての名称は「草津温泉」だった。実際に草津温泉から、わざわざ湯を運んで沸かしなおしていた「再生温泉」では、おそらくなかったのだろう。そんなことをしていたら、とても採算がとれるとは思えない。では、なぜ「草津温泉」などという名称を付けたのだろうか?
 昔の銭湯名を調べてみると、面白いことがわかる。もちろん、「○○湯」という一般的な銭湯名がほとんどなのだけれど、それらに混じってなぜか「草津温泉」や「伊香保温泉」、「有馬温泉」、「志保ノ湯温泉」といった実際の温泉名を付した湯屋が営業していた。しかも、それらの「温泉」は街中ではなく、東京でも少し奥まった静かな一帯、あるいは近くに物見遊山の名所がある地域、さらには東京市外つまり郊外の寮(別荘)が建てられているようなエリアに見えている。
 たとえば、駒込の「草津温泉」、根津の「伊香保温泉」と「志保ノ湯温泉」、向島の「有馬温泉」などが営業していた記録がある。中には、「伊豆七湯温泉」などというのもあり、伊豆なら少し足をのばせばすぐに行けるのに・・・というような、近場の温泉を名乗るところもあった。これらの湯屋は、日々の汗を流す銭湯というよりは、どこか湯治場のような風情があったようだ。俥で客が乗りつけると、女中たちが出迎えて座敷へ通された。中には、数日逗留する客もあったのだろう。同時に、近隣の住民たちへは銭湯の役割りもはたしていたらしい。
 
 東京の「温泉場」の様子を、少し古い記録だが、春の家おぼろ(坪内逍遥)の『一読三嘆当世書生気質』(1885~86年)から引用してみよう。
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 草津とし云へば臭気も名も高き、其本元の薬湯を、ここにうつしてみつや町に、人のしりたる温泉あり。夏は納涼、秋は菊見遊山をかねる出養生、客あし繁き宿ながら、時しも十月中旬の事とて、団子坂の造菊も、まだ開園にはならざる程ゆゑ、この温泉も静にして浴場は例の如く込合へども皆湯銭並の客人のみ、座敷に通るは最稀なり。五六人の女婢手を束ねて、ぼんやり客俟の誰彼時、たちまちガラガラツとひきこみしは、たしかに二人乗の人力車、根津の廓からの流丸ならずば権君御持参の高帽子、と女中はてんでんに浮立つつ、貯蓄のイラツシヤイを惜気もなく異韻一斉さらけだして、急ぎいでむかへて二度吃驚、男は純然たる山だし書生。
                                (『一読三嘆当世書生気質・第十四回』より)
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 駒込だから本郷も近く、ここに描かれた「山だし」の「書生」とは帝大生のことらしい。これら「温泉場」の周囲には、娼楼やあいまい宿、茶屋などの店も増えていったようだが、風紀上好ましくないということで、明治期のうちに色町へと移転させられるか、あるいは自ら廃業している。
 さて、駒込ではなく下落合の「草津温泉」だけれど、おそらく東京市の郊外に拡がる静かで野趣あふれる武蔵野に設営された、東京の「温泉場」のひとつだったと思われる。ちょっとした“隠れ家”感覚で、宿泊客も受け入れていたのかもしれない。ただし、明治時代とは異なり、大正期には周辺に娼楼やいかがわしい茶屋街などが形成されることはなかった。東京市民が、日常を忘れてノンビリすごす、寮(別荘)がわりの「温泉場」だったのだろう。
 同じようなコンセプトの「温泉場」には、郊外の目黒駅近くに建てられた目黒雅叙園Click!がある。雅叙園では、実際に温泉場からラジウム鉱泉を運んできて沸かしなおした「再生温泉」が大きな目玉だった。「百人風呂」や「千人風呂」と呼ばれた鉱泉湯は、東京市民の人気をさらった。
 
 やがて、大正も後半期に入ると、関東大震災を境に目白・下落合地域には宅地化の波が押し寄せてくる。また、神田川や妙正寺川沿いにも、染物業や製薬業などを中心にさまざまな工場が進出し、のんびりとした東京郊外に拡がる別荘地帯としての風情は、急速に失われていった。下落合の「草津温泉」は、どこかで営業方針の根本的な転換を迫られたことだろう。
 到着した客たちを出迎える女中たちを解雇し、座敷や宿泊設備、遊技場、庭園などを改造して、いつのまにか東京の街中となんら変わらない、周辺住民たちが汗を流すふつうの銭湯へと大きく脱皮していったのだろう。

■写真上:下落合の「草津温泉」跡で、現在は銭湯「ゆ~ザ中井」となっている。
■写真中:左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる「草津温泉」。右は、1936年(昭和11)現在の空中写真。庭園でもあったのか、排煙の下のほうまで敷地がつづいていそうだ。
■写真下:左は、佐伯祐三の『下落合風景』(部分)に見える「草津温泉」Click!の煙突。右は、1953年(昭和28)ごろに撮られた写真。ふつうの銭湯となり、おそらく名称も変わっていただろう。