下落合の目白崖線や小金井の国分寺崖線と同様に、「丸山」の地名が残る東京タワー下、芝の丸山古墳Click!の発掘調査について書いてみたい。同墳は、東京の南部で判明している、最大の前方後円墳だ。ちなみに、都内で「丸山」の地名が残るところには、たいがい大きな古墳(山と名づけるほどの巨大な墳丘)が存在したと思われ、「大塚」の地名が残るところには、数十メートルクラスの中規模な多数の古墳群(円墳のケースが多い)の存在が想定できるようだ。
 落合地域を見ると、下落合には「丸山」Click!が、上落合には「大塚」Click!の各地名がふたつともきれいに伝承され、江戸期から昭和初期ごろの地図にいたるまで採集されつづけてきた。わたしが、明治期に坪井正五郎が発掘調査した芝の丸山古墳や、大正期に鳥居龍蔵が調査した国分寺崖線の丸山古墳Click!が気になりこだわってしまうのは、まさに「丸山」の地名が「大塚」とセットになって、落合地域にも残っているからにほかならない。目白崖線の下を流れる、平川=ピラ(崖)川(旧・神田上水→現・神田川)沿いに展開していた「百八塚」Click!の伝説とともに、この地域が古代から巨大古墳の集合地ではなかったか・・・と想像しているからだ。それは、これまで焼け跡の空中写真をもとに、「ミステリーサークル」Click!シリーズとして書いてきたとおりだ。
 
 増上寺の歴史は古いが、江戸の最初期に芝へと移されたときには、すでに境内造成のために丸山古墳の形状へ、大きく手が入れられたと想定されている。前澤輝政の『概説・東国の古墳』(1999年)によれば、「破壊」という言葉をつかって表現されている。そのときに発見された埋蔵物の記録は、江戸初期なので残念ながら伝えられていない。江戸時代からすでに存在していないが、この大きな古墳の周囲にあった周濠も、最初期に埋め立てられているのかもしれない。また、大正期までは確実に残っていた、丸山古墳を取り巻くように築造された十数基の円墳群も、増上寺の開山当初はもっと数が多かったと想像できる。それは、増上寺境内のあちこちから発掘されつづけた、さまざまな副葬品や遺物の数々でも明らかだ。
 江戸期の記録からご紹介しようと思っていたのだけれど、わたしの整理の悪さから、大量の資料類にまぎれてしまったのか、どうしても見つからない。そこで、より今日の考古学に近いかたちの調査が行われた、明治期の帝大教授で日本の「人類学」の創立者といわれている、坪井正五郎の「芝丸山古墳」調査記録を見てみよう。
 江戸初期に大きく破壊された芝丸山古墳だけれど、増上寺の伽藍充実とともに、さらに江戸期を通じて引きつづき壊されていく。明治期に入り、同墳にようやく本格的な調査の手が入った。そのときの調査結果は、坪井正五郎の『東京市芝公園丸山の古墳調査の結果』(1900年・明治33)に詳しくまとめられている。江戸期に壊されつづけた丸山古墳だが、それでもなお数多くの埋蔵物が、このときの調査で出土している。また、埴輪の破片なども多数出土し、同墳の規模の大きさと貴重性とを改めて裏付ける結果となった。その多数の副葬品の様子や特長から、4世紀から5世紀前半ぐらいまで、すなわち弥生時代末から古墳時代にかけての、いわゆる「古墳時代前中期」に造成された、南武蔵勢力を代表する大王の墳墓だと思われている。
 

 出土した古墳刀は、反りのない直刀Click!ばかりだったようだが、関東の古墳からはときどき反りのついた、日本刀の祖形と思われる古墳刀が出土することがある。従来の刀剣史では、日本刀の祖形は東北地方から多く出土する「蕨手刀(わらびてとう)」と説明されることが一般的だった。だから、日本刀の発祥は岩手のもっとも古い舞草(もぐさ)鍛冶、あるいは山形の月山鍛冶あたりだろうとされてきた。でも、近年の関東地方の古墳から、反りのついた古墳刀、すなわち蕨手刀よりもさらに日本刀の形態に近づいた刀剣が出土しているということは、他に例のない日本ならではのオリジナル刀剣=日本刀の誕生について、刀剣史の見直しが必要なのかもしれない。
 もっとも、そのときどきで混ぜ合わされる折り返し鍛錬時の鋼(目白)の硬軟によっては、のちの芯鉄や皮鉄のような複雑な概念や技法は、いまだ存在しなかったかもしれないけれど、焼き入れの湯加減・水加減により、自然と内反り・外反りともに反ってしまうケースもあり、いちがいに鍛冶による意図的な仕様だとは断定できない。ただし、このような考えのもと、直刀が「成功作」で反ってしまった湾刀が「失敗作」だとすれば、有力者の墳墓の副葬品としては、まったくふさわしくないことになってしまう。すなわち、意識的に反りのついた日本刀に近い形態の刀を、生前から佩いていた(腰に吊るしていた)と考えるほうが、むしろ自然のように思えるのだ。
 反りのついた刀の存在は、歴史的な観点からも大きな意味を持つ。つまり、当時の関東地方における一般的な戦法が、近畿地方に見られるような徒歩(かち)戦による、刺突を前提とする直刀(朝鮮刀)ではなく、騎馬戦によるすれ違いざまの斬り合いを前提とする、湾刀(日本刀=初期型太刀)ないしは長巻(ながまき=薙刀の祖形)のような武器を用いていた可能性が出てくるからだ。関東地方で多く発掘される、文字通り「群馬」の地域に多い馬牧場の遺構(メグロ=目黒・馬畦=馬牧場Click!)や、各地の地名などともよく符合してくるのだ。
 丸山古墳は、明治以降も壊されつづけている。まず、前方部の南側が道路のために大きく削られてしまった。この道路工事によって、丸山古墳の墳丘部はおおよそ4分の1が削られた。つづいて1950年代、西側に隣接したホテル建設のために、後円部の西側が削られた。その際、同墳の西側一帯に展開していた、大正期に鳥居龍蔵がかろうじて調査している、大小さまざまな円墳群がすべてつぶされている。これらの造成工事により、周濠も含めた丸山古墳本来の大きさが(江戸期以前の姿はさらに巨大だったと思われる)、非常に曖昧となってしまった。
 
 さて、話を目白・落合地域にもどそう。上落合にある「大塚」地名の由来は、戦前まで中規模の円墳が、山手通りと早稲田通りの交叉点近くに現存していたのでおおよそ明らかだ。ただし、江戸期以前までは、もっと大きな塚があったのかもしれず、下戸塚地域(早稲田界隈)と同じく、江戸期に付近の農民たちの手で古墳の墳丘が次々と崩されて開墾され、すでに消滅した別の大円墳がそもそもの地名由来なのかもしれないが・・・。
 下落合の「丸山」の由来は、東京の他の地域とほぼ同様に、円墳よりはむしろ前方後円墳を想起させる。もちろん、いまではそれらしい墳丘すら残っていない。わたしは江戸期以前、おそらく街道が通じた鎌倉時代ごろから、農地や道路に削られつづけ、現在ではきわめて小さなエリアになってしまった、七曲坂下の氷川明神女体宮を、前々から疑いつづけている。

■写真上:左は、道路に削られた芝丸山古墳の前方部を、南側から眺めたところ。左側は、新たに建設された高層ホテルの敷地。右は、後円部の頂上だが、墳丘の高さも削られている。
■写真中上:左は、JR山手線にも駅名となって残る、文京区の大塚古墳の丘裾にあった戦前の大塚稲荷。右は、大塚古墳が破壊されていく様子で、墳丘最後のひと山。
■写真中下:左は、Googleの空中写真に坪井博士の実測図を重ねたもの。右は、明治期に行われた調査で大量に出土した人物埴輪のひとつ。下は、坪井報告書に見られる出土物イラスト。
■写真下:左は、下落合の「丸山」に接する氷川明神女体宮あたりの空中写真(1936年撮影)。本来の境内のかたちや広さを前提に、あるいは江戸時代に書かれた図絵などを参考に、前方後円墳を想定するとこれぐらいのサイズだろうか。右は、かなり小さくなってしまった現在の氷川明神社。