以前に、目白駅の西側にひっそりと残る、古いコンクリート階段Click!について書いたことがある。この階段は、目白駅の改札を出た人々が、てっきり高田町の金久保沢(現・目白3丁目)あたり、または下落合の近衛町へ豊坂稲荷がある坂をのぼって近道するために利用したのだろう・・・などと考えていた。しかし、これは大きな錯覚で、実は改札を出た人々が目白通りへ、あるいは目白橋へと登るための階段だったのだ。
 この勘違いに気がついたのは、1929年(昭和4)の「帝都復興東京市全図」(1/10,000)の、目白駅ホームとともに描かれた、道筋の描写を見つけたからだ。現在の目白駅改札口は、目白通りに面して、つまり目白橋の上へ直接出られるような構造となっている。もちろん、わたしの子供のころから、目白駅は同様の造りをしていたように記憶している。ところが大正期から昭和初期まで、目白駅の改札は金久保沢Click!の深い谷間にあったのだ。金久保沢は、品川赤羽鉄道(山手線)の線路工事によって崩された、目白崖線に通う湧水源の谷戸のひとつだったろう。
★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!した。また、この階段も初代・橋上駅の業務用に使われた可能性が高いことも判明している・
 目白駅の改札口を出た乗降客のうち、目白通り側へ出る人たちは、コンクリート階段を登って目白橋の西詰めへ、下落合へ向かう人たちは、豊坂稲荷の前を通り近衛町へと抜ける坂道をあがっていったのだろう。線路の東側=学習院側には改札口がなかった。1924年(大正13)に学習院側から撮影された写真、あるいは小島善太郎の作品Click!を見れば明らかだ。
 
 大正期から昭和初期に書かれた資料類に、どうしても腑に落ちない記述がいくつか見えていた。それは、台風などで大量の雨が降ると、目白あるいは下落合が冠水して「水びたし」になっていたという表現だ。目白・下落合界隈は目白崖線の丘上にあり、「水びたし」になるわけがないのに・・・と、以前から不思議に思っていたのだ。たとえば、相馬黒光の『黙移』の中にも目白が大雨で水没した中を、岡田虎二郎Click!が下落合の自宅へと帰る描写がある。でも、現在の目白駅の姿を考えると、そのような光景はありえない。ところが、目白駅の改札口が金久保沢に面していたのを前提にすれば、この不可解な表現の謎がすぐにも解けてくる。
 つまり、目白駅の改札口と、駅前“広場”の全体が大雨で冠水した・・・ということなのだ。だから、目白通りへ出る人も、また下落合へと抜ける人も、池のようになった地面を歩かなければならなかったということなのだろう。この状況が、目白や下落合が「水びたし」という表現につながってくる。現在の金久保沢は、区画整理や道路の整備が進んで水びたしになることなどありえないけれど、当時は雨が降るとすぐに冠水する地盤だったのだろう。その名の通り、金久保沢からは泉の小流れがつづく、目白崖線沿いにあまた口を開けていた谷戸のひとつだった。だから、多めの雨が降ると、地下水脈が膨張して地表へとせり上がってきたにちがいない。これは、いまでも下落合に建つビルの地下室で、たまにみられる現象だ。
 
 目白駅の手前である、高田馬場駅のプラットホームもかなり短めで、現在とはやや異なる位置にあったことがわかる。高田馬場駅のメイン改札口は、現状では早稲田通りに接するような構造になっているけれど、当時の高田馬場駅ホームは現在のBIGBOXと並ぶような位置に描かれている。ちょうど、BIGBOX脇にある地下鉄東西線への昇降口あたり、駅前広場の諏訪町側に改札口があったものだろう。親父が日本橋の実家を離れ、敗戦間際に駅の南側へ下宿をするころには、高田馬場駅の改札はもう少し北へと移動していた。

■写真上:目白駅に残る、改札口から目白通りへと登るコンクリート階段。大雨が降ると、この階段のすぐ下まで水に浸かっていたのかもしれない。
■写真中:左は、1929年(昭和4)の「帝都復興東京市全図」にみる目白駅。他の地図には見られない、改札口と駅前の“広場”が金久保沢の谷間に描かれている。右は、学習院側の目白土手から眺めた、1924年(大正13)の目白駅。右側の橋が目白橋で、改札口は金久保沢側だけだった。
■写真下:左は、目白駅の改札があったあたりの現状。ほんの少しだが、当時の駅前にあったスペースの風情がいまでも残っている。右は、金久保沢への降り口の現状。