明日は、中村彝の83回目の命日だ。新宿区による彜アトリエの保存に関しては、いまだ交渉中とのことで最終的な決定をみていないが、1日でも早い保存・補修を願ってやまない。
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 中村彝Click!の人物画(肖像画)を観ていると、ふと気になることがある。1914年(大正3)までに描かれた人物画では、描き手である彝のほうへモデルがまっすぐ視線を向けている作品が多い。ところが、1915~16年(大正4~5)以降になると、彝の視線を受けとめながら、すなわち彝自身と目を合わせながら制作している作品が、あまり見られなくなっていく。もちろん、鏡を見ながら描く自画像や、写真をもとに描いた例外的な肖像画作品(死の直前に描いた1924年の『中村春二像』など)は、このテーマからできるだけ除外してのことだ。
 たとえば、長期間にわたり行方不明となっていた1912年(明治45)の『友の像』や、1913~14年(大正2~3)ごろ新宿中村屋時代に描かれた相馬家の家族の肖像などを見ると、まさに彝と目を合わせながらポーズをとっている作品が多い。だが、1916年(大正5)の7月に完成した『田中館博士の肖像』では、博士は計算尺に目を落としたまま、彝と目を合わせる気配さえない。いや、これは寺田寅彦らによる特別なオーダー作品Click!で、さりげない日常をテーマに博士らしいしぐさやポーズから、人物の内面までを描き出そうとした例外的な表現だったとしても、その後も描きつづけられていく自画像以外の人物画で、対象となるモデルと目をジーッと見合わせながら制作した作品が、ほとんどなくなっていくのだ。
●~1915年
  
  
 親友であるはずの『彫刻家保田龍門の像』(1915年・大正4)や『洲崎義郎氏の像』(1919年・大正8)、また一時ともにアトリエで暮らして雑用をこなしていた、佐渡出身で画家志望の河野輝彦を描いた『男の顔』(1920年・大正9)でさえ、彝への視線が微妙にあるいは大きく外されている。いや、おそらく彝の側から視線をどこへ向けるのか、モデルたちへいちいち注文を出していたのだろう。プロのモデルを雇った『女』(1921年・大正10)などでも、自分のほうへ視線が向かないようなポーズをとらせているのが興味深い。これは、いったいどういうことだろう?
 他者の視線をわずらわしく感じ、ことさら避けたくなる可能性としては、自身の“位置”や内面が不安定化したとき、また自己嫌悪とか羞恥の感情が心を大きく占めているとき、あるいは自意識過剰や精神的に落ち着かず常に焦燥感を抱いているとき・・・などが考えられるだろうか? モデルの視線さえまっすぐに受け止められないなにかが、1915年(大正4)ごろに起きている・・・ということなのだろうか。もちろん、病状の悪化もあるにちがいない。相馬俊子との恋愛が親たちの反対で破綻したせいもあるだろう。そして、周囲の人々が自信ありげにふるまい、当然のことのように生きているのが、彝にはまったく不可解に映じていたのかもしれない。橋本治がどこかに書いていたけれど(確か今年の『芸術新潮』のモディリアニ特集だったと思うが)、画家がモデルの視線を受け止められなくなるのは、精神的あるいは肉体的に脆弱化している時期だ・・・という趣旨の言葉が、強く印象に残っている。
●1915~1924年
  
  
  
 その後、彝は表現技法においても、さまざまに揺れ動いているようだ。あるときはレンブラントを思い出したり、ルノアールへ大きくシフトしたり、セザンヌに回帰したり、思わずゴッホを混ぜ合わせてみたり、ときにはアトリエの壁面に貼ったグレコを倣ったり・・・。自身の存在や軸足への迷いあるいは不安は、表現の不安定さや動揺へと直結する。1918年(大正7)に、下落合のアトリエの庭を描いた『庭園』では、同じ画面の左と右とで異なる表現法をそのまま放置して、通常ではありえない作品として残してしまうほどに当惑していたものだろうか? 彝の描く眼差しは、ますます不安げに意思的な力を失い、ときには虚ろにさえなっていくようだ。

 相手の視線をまっすぐ受け止めて、人物画を描けなくなったらしい彝の前に、そんな時期、願ってもないモデルが現われた。モデルの視線を気にせず、自身へ注がれる眼差しをいっさい意識することなく、思う存分に描けた人物画が、そのころたった1点だけ存在している。そのモデルClick!は、画家の目を見返そうにも不可能だった。目が見えなかったのだ。

■写真上:1922年(大正11)に描かれた、わたしの好きな人物画『婦人像』(三重県立美術館蔵)。
■写真中:1915年(大正4)以前の、人物画に見られる眼差し。
■写真下:1915年(大正4)以降の、人物画に見られる眼差し。