椎名町駅近くの金剛院には、佐伯祐三が1926年(大正15)に描いた『絵馬堂(堂)』Click!に意匠がよく似た、大きさもほぼ一致しそうな大師堂がある。佐伯は、鈴木誠Click!らと連れ立って長崎村界隈もスケッチしてまわっているので、描画ポイントが不明な『絵馬堂』探しには欠かせないエリアだ。さっそく出かけて、そこかしこでお話をうかがう。
 金剛院と長崎氷川明神(明治期から「長崎神社」Click!に改称)は、東京にある多くの寺社がそうであるように、時代とともに境内が縮小されつづけてきた。もっともダメージが大きかったのは、改正道路(山手通り)の造成工事だったようだ。もともと長崎神社と金剛院の境内は、東側に江戸期からつづく樹林や竹薮が拡がるゆったりとした境内だったものが、山手通りの造成で大きく削られ、工事中は土砂の山と化してしまった。
 そして、山手通りの工事は間に戦争をはさんで、中断されたままの状態が長期間つづくことになる。つまり、むき出しでならされた地面の状態が長くつづき、戦後のどさくさからか、そこにいつしか家々が建ちはじめ人々が住むようになった。山手通りの造成で一気に壊された境内は、そこが寺社領だったことを証明する目印がなにもなくなり、戦時の混乱とともに地籍が曖昧な状態のまま、境内がさらに削られることになってしまった・・・と、お訪ねした方丈では残念そうに話されていた。
 
 くだんの大師堂は、近年になって現住職が建てられたもので、昔からそこにあるものではなかった。1936年(昭和11)の空中写真には、山手通りの下になってしまった東側のエリアにも堂のような屋根がいくつか見えているけれど、佐伯が描く『絵馬堂』のような建物はなかったとのこと。「かなり大きなお堂ですね。ひょっとすると・・・」と、金剛院の門前に隣接している不動堂の、昔日の姿ではないかということで、現在では小さな建物になってしまった不動堂の管理者をご紹介いただいた。堂の前に立っているのは人物ではなく、石の地蔵尊ではないか・・・とのご教示もいただいた。
 長崎の不動堂は、椎名町商店会のO電器店が代々管理をされてきている。さっそくうかがってみると、O様は首をかしげて考えこまれてしまった。現在の堂が建つ前の堂も、このような姿ではなかったとのお話。また、長崎界隈でこのような堂を見たことがおありかどうかもお訊ねしたが、古いアルバムなどの記憶でもまったく見憶えがないとのお返事だった。
 
 下落合の氷川明神とまったく同様の女体宮で、古来よりクシナダヒメ1柱を奉る、氏子数1万2千世帯の大きな長崎神社(長崎氷川明神)へ最後の期待をかけたけれど、残念ながらこのような堂はやはり存在しなかったようだ。
 下落合にも上落合にも、葛ヶ谷(西落合)、上高田、東中野、長崎(椎名町)にも、いまのところ見つけることができない『絵馬堂』。はたして佐伯は、いったいどこの風景を描いたものだろうか? 東京美術学校の北側、谷中の寺社に建っていた「堂」を描いていたりするとやっかいだ。

■写真上:左は、1926年(大正15)制作の『絵馬堂(堂)』。右は、長崎にある金剛院の大師堂。
■写真中:左は、金剛院の本堂。右は、江戸期には氷川明神女体宮だった現・長崎神社。
■写真下:左は、1936年(昭和11)に撮られた山手通り工事前の長崎神社と金剛院。東側に拡がる樹林の境内に、堂らしい屋根を見つけたのだが・・・。右は、1947年(昭和22)の金剛院あたり。