三ノ輪(箕輪)といえば、都電荒川線の終点として有名だけれど、もうひとつ江戸期の処刑場があった小塚原(こづかっぱら)や、浅草田圃の新吉原Click!が近いことでも、江戸期から有名だった。子供のころ、新吉原の風俗街を避けるように、わたしは親父と三ノ輪や小塚原を歩いている。
 「雨の三の輪の里こえて、田の面(も)に落つる雁の声」と、「雨の」が枕にかぶさる芝居の台詞で有名な箕輪だが、江戸期から三ノ輪や箕輪と書かれても、「蓑」の字が当てはめられたことは一度もなかった。都電を降りて徒歩数分、浄閑寺を訪れてみる。この寺は地元のアラーキーこと、荒木経惟の檀家寺であり、墓地で撮影されたなまめかしい作品の数々でも有名だが、わたしにとってここは、親父の逸話がアタマにこびりついて離れない寺だ。浄閑寺は別名「投込寺」とも呼ばれた、新吉原の遊女たちの遺体を葬った寺として知られる。
 親父が子供のころのことだから、昭和初期のことだろう。ある曇りの日に、両親とともに箕輪界隈へ散歩に出かけたことがあったらしい。当時は、いまだ市街地から外れた辺鄙な風情の残る、寂しい町並みだったようだ。浄閑寺に立ち寄った親父は、墓石横の地面のそこここからニョキニョキと突き出た遊女たちの骨に愕然とする。住職によれば、雨が降るとリンが燃えて墓地のあちこちで青い火がともるという話も、そのとき聞いている。「もうすぐ降りそうだから、見ていきますか?」という住職の言葉に、生きた心地もない親父は、すぐさま祖母の手を引っぱったそうだ。
 
 わたしが子供のころに訪れた浄閑寺では、別に人骨がニョキニョキと地面から突き出ていた記憶はないので、とうに改葬され、すでに手厚く供養されていたのだろう。現在では、石の大きな地蔵尊が奉られる真下に、広いコンクリートでできた納骨スペースが造られ、「新吉原総霊塔」として娼妓たちの骨は安置されている。そのほかにも、古い石仏や板碑が集められた塚があり、その下にも多くの娼妓の遺骨が眠っているのだろう。彼女たちの骨壷が並んだ「総霊塔」の下を撮影してみたが、やっぱり不可解な球状の発光体Click!が、わたしに向かって急にたくさんお集まりになり、まともに内部の様子を写すことができなかった。こうして、ちゃんと記事に書いて残しているから祟らないでね。>娼妓のお姉さんがた(^^;
 芝居の世界でも、三ノ輪というと暗いイメージがつきまとう。新吉原の文字どおり「仲」の芝居には、目のさめるような華やかなものが多いけれど、一歩外へ出ると陰惨な物語が紡がれている。岡本綺堂の芝居『箕輪心中』も、そんな作品のひとつだ。これも1785年(天明5)の夏に三ノ輪で起きた、実話をもとにした芝居のひとつ。
 
 麹町番町の乃手に住む四千五百石どりの旗本・藤枝教行(外記)が、吉原の草市で出逢った大菱屋の遊女・綾衣(あやぎぬ)が忘れられず、それから3年間にわたり吉原へ入りびたりとなった。旗本の目にあまる不行跡は、さすがに目付の耳に入って、彼は当時の閑職=甲府勤番へ左遷されそうになる。綾衣に逢えなくなると絶望した藤枝は、大菱屋から綾衣をひそかに連れ出して、三ノ輪にあった乳母の家に隠れるが、すぐに吉原の追っ手がかかり、やむなくふたりは白刃を抜いて・・・という経緯だ。「君と寝やろか、五千石とろか、何の五千石、君と寝よ」と、刹那的で投げやりな七五調の歌はいまでも有名だけれど、綺堂の芝居では五千石ではなく五百石となっている。
 
 藤枝数行の墓は、岡本綺堂によれば浅草田中町の寺にあるということだが、共死にした綾衣は身ぐるみ剥がされて、おそらく浄閑寺へ裸で投げ込まれただろう。そんな身の上の骨は、死にきれぬまま情念がかき立てられて、雨が降ると燃える青火も、ひときわ鮮やかだったものだろうか。平均寿命が22歳だった吉原遊女2万人が、狭い境内のそこかしこでいまも眠っている。

■写真上:浄閑寺(投げ込み寺)の本堂。遊女たちの墓は、本堂の裏手にある。
■写真中上:左は、浄閑寺の山門。右は、1955年(昭和30)ごろの三ノ輪界隈。
■写真中下:遊女たちの納骨堂。中へカメラを向けたけれど、やはりうまく撮影できなかった。
■写真下:左は、墓地に建立された新吉原総霊塔。右は、岡本綺堂『箕輪心中』の舞台写真。大正末か昭和初期の撮影で、藤枝外記は二代目・市川左団次、綾衣は四代目・澤村源之助。