以前、1928年(昭和3)に下落合の徳川邸を描いた、洋画家・吉田博Click!の『落合徳川ぼたん園』をご紹介した。その後、しばらくすると1934年(昭和9)に、吉田は下落合2丁目667番地すなわち「八島さんの前通り」Click!に沿った、目白文化村Click!の第三文化村へ引っ越してきている。佐伯祐三のアトリエからわずか40mほど南西の敷地、下落合658番地に住んでいた青柳さんちClick!の、斜め向かいにアトリエを建てている。
 吉田博は、満谷国四郎Click!や中村不折Click!らとともに、東京美術学校裏の谷中へ太平洋画会を起ちあげた創立メンバーのひとりだ。吉田の作品は、山海を描いた風景画が有名だけれど、画業の半面で版画作品も数多く残している。サイトでご紹介した『落合徳川ぼたん園』も、版画シリーズ「東京拾二景」の1作だ。吉田の版画は、日本国内にとどまらず米国やヨーロッパ、インド、アフリカとグローバルな視野で画材を求めている。
 
 江戸期から受け継がれた浮世絵版画の潮流は、小林清親Click!の一派以降は衰退をつづけたが、大正期に入ると新しい表現や技法をめざす創作版画、すなわち「新版画」の流れが登場している。「新版画」とは、江戸期の絵師・彫師・摺師による制作の分業化に対して、画家自身がすべての制作過程を手がけるという、作者が作品の仕上げまで全的に関わるという点では新しい試みだった。当時のヨーロッパで流行していた、「オリジナル版画」の流れに呼応したものだったろう。そのせいか、吉田の作品は日本国内よりも、かえって欧米のほうに知られ人気が高かったようだ。
 『落合徳川ぼたん園』が描かれた当時、吉田はまだ下落合へ引っ越してきてはいない。1926年(大正15)からスタートしていた「東京拾二題」のモチーフに、徳川邸の「静観園」Click!を選んだのは、すでに下落合へアトリエをかまえていた満谷国四郎の薦めがあったからではないか。また、6年後に下落合へアトリエを建設したのも、満谷からの推奨が感じられる。
 
 吉田のアトリエ内部をのぞいてみると、壁には世界各地の面やタペストリーなどの工芸品が架けられており、床面にはスケッチの画面が並べられている。イーゼルが見えず、一見、洋画家のアトリエというよりは、日本画家の画室か工芸家の工房のような印象を受ける。事実、吉田は自身のアトリエのことを、しばしば「工房」と呼んでいたようだ。
 戦後は、欧米での知名度が高かったせいか、吉田アトリエは進駐軍の芸術サロンのようになった。敗戦直後の1945年(昭和20)の秋、いち早くマッカーサー夫人も下落合のアトリエを訪問している。米軍のバンカースクラブ(将校クラブ)での版画講習会や、参加者をつのってアトリエ見学会が毎月開かれるなど、吉田作品の人気はきわめて高かった。
 
 
 やがて、太平洋画会の会長にも就任し、吉田博がもっとも輝いていた敗戦後、73歳を迎えた彼はもう一度山海を描こうとしたものか、伊豆長岡への写生旅行に出発している。その旅先で体調を崩し、1950年(昭和25)に下落合で逝去。吉田博の版画作品は、現在でも日本国内のみならず海外でも広く知られている。

■写真上:左は、第三文化村にあった旧・吉田アトリエ跡の現状。右は、晩年の吉田博。
■写真中上:左は、ギリギリで空襲による延焼をまぬがれた1947年(昭和22)の第三文化村に建つ吉田アトリエ。南側には、クロッケーをして楽しんでいた芝庭が見えている。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同邸。またしても「火保図」は、住民の名前を「吉岡博」と誤採集している。
■写真中下:左は、進駐軍の将校クラブで講演する吉田博。右は、谷中の旧・太平洋画会跡。
■写真下:吉田アトリエの内部。カラー写真は、「八島さんの前通り」から見た旧・吉田邸跡。