大正期に入って、下落合の大規模な宅地化が進行すると、悩みのタネは下水道だった。目白文化村は、上下水道完備ということで売り出されたけれど、ガスとともに下水道も不完全で、のちに町内会である「廿日会」が整備していることは、すでにご紹介Click!した。でも、もっとも深刻だったのは、坂の多い下落合の急峻な斜面に、下水道を通さねばならなかったことだ。
 下落合に家が新築されると、建物の裏などに細い路地状の土地が姿を現すことがある。マンションなどが建てられたときに顕在化する、線状のスペースについてはいつか記事Click!にも書いた。地下には下水管が埋設されており、線状の空間は東京都の所有地であることが多い。湧水が多い下落合では、あちこちに細長い都有地が見られるのだ。一方、生活排水の下水は、昔から道路の側面に掘られた下水溝を通じて、下水管さらには河川へと流れこむのが一般的だった。雨でも降れば、すぐにあふれて道路が冠水しただろう。
 
 急峻なバッケ(崖線)の斜面となると、事態はもっと深刻だ。大雨が降れば、下水からあふれた汚水がたちまち坂道を浸し、まるで滝のように流れ落ちることになる。当時の道路わきに設置された下水溝は、現在のようにコンクリートのフタなどされていなかった。たとえば、宅地として開発されたばかりの、アビラ村・二ノ坂上を描いた佐伯祐三『下落合風景』のひとつ「遠望の岡?」Click!のように、道路わきの下水溝はフタもされず開渠のままだった。台風でも来れば、すぐにも坂道は泥沼と化していたにちがいない。さらに下の二ノ坂では、流れ落ちる下水と雨水とで水浸しになっていただろう。五ノ坂の林唯一邸Click!に、靴洗いの池が造られたのが象徴的だ。
 このような坂道や斜面など、傾斜地における排水課題を解決したのが、下水溝と下水管とを組み合わせた昭和初期に普及する“下水道システム”だった。道路の中央に太い下水管を埋設し、側溝から流れこむ支管を設置する。このような構造であれば、雨が降っても坂の下へ一気に水があふれ出し、流れ落ちることも少なくなった。だが、想定外の集中豪雨のときなどは、やはりシステムの処理能力を超えてしまい、坂道には水があふれ出していたようなのだけれど・・・。
 
 薬王院の境内に沿って、散歩にはもってこいの風情ある階段が設置されている。別に、新宿区が住民サービスの一環として、趣きのある散歩道を整備してくれたわけではなく、頂上にウサギとフクロウのいる階段は、東京都下水道局の仕事だ。この階段は、大正末か昭和初期に東京府によって設置されている。1929年(昭和4)の地図に、早くも階段の存在を確認することができる。つまり、この階段は丸ごと「下水道」なのだ。段上のあちこちには下水道局のマンホールが口を開け、バッケの急斜面を流れくだる基幹下水道としての、ひとつの最適解(ソリューション)というわけだ。
 
 近年、かなり荒れていたコンクリート階段を、ご近所の宇田川様たちが東京都にかけあい、落ち着いた風情のある散歩階段へとよみがえらせた。こんな「下水道」なら、下落合にいくつかあってもいいのだけれど・・・。階段の下り口にはウサギとフクロウがいるのだが、下落合だからタヌキとメジロ、あるいはカルガモのほうが似合うかもしれない。

■写真上:薬王院の塀わきに通う、側溝も暗渠化された東京都の下水道階段。
■写真中上:左は、階段のあちこちに設置されている下水道局のマンホール。右は、1926年9月27日に描かれたらしい佐伯祐三『下落合風景』(部分)。道端の下水溝にフタはされていない。
■写真中下:左は、昭和初期に普及した下水道システムの断面図。1934年(昭和9)の『婦人倶楽部』11月号「十年の研究によって改良を加へられた同潤會住宅三種」より。右は、見上げた階段。
■写真下:左は、1964年(昭和39)に撮られた下水道階段。コンクリート造りでボロボロ階段だった記憶が長い。右は、バッケからの眺めがいい頂上のウサギとフクロウ。