下落合には、建築家の吉武東里(とうり)が設計した建物がいくつか見られた。片や横浜税関や国会議事堂の設計にたずさわる一方で、彼は東京や郷里の大分県国東で多くの個人邸を手がけている。下落合で吉武東里が設計した建物は、国会議事堂と同様に大熊喜邦とのコラボレーション作品といわれる島津源吉邸Click!や、その南隣りの刑部人(おさかべじん)邸Click!が有名だった。
 吉武の作品が落合地区に多いのは、以前にもご紹介したように島津邸や刑部邸の「近所」に住んでいたからだ。その「近所」とは、いったいどこだったのか? その答えを、マイケルさんが吉武東里のご子孫にまで取材されて、わざわざお知らせくださった。吉武東里は、1920年(大正9)に上落合470番地に家を建てて引っ越してきている。(資料によっては1921年とする説もある) 島津邸や刑部邸からは、妙正寺川や現在の西武新宿線の中井駅をはさんで徒歩10分ほどの距離だ。
 上落合470番地の敷地は、300坪を超える広大なものだった。敷地内には竹林もあったらしく、吉武家は関東大震災のときにはそこへ仮小屋をこしらえて避難している。そして、邸の南側には現在落合第二小学校となっている、おそらく2,000坪を超える広大な敷地に野々村邸が建っていた。ここに住んでいた、開発社社長の野々村金五郎も、吉武と同じ大分県の出身だった。野々村は、満鉄社員をはじめ長年各地の銀行につとめたあと、自身で開発社を興したらしい。
 
 おそらく、上落合470番地の周辺には、下落合の「熊本村」Click!と同様に、大分県出身者たちが集まる「大分村」が形成されていたと思われる。事実、吉武がここに家を建てると、親戚一同を郷里から呼びよせては近隣に家を建てて住まわせている。国東の来浦出身者が多いので(吉武夫人も来浦出身だった)、地元では通称「小来浦村」と呼ばれていたようだ。周囲の敷地を提供したのは、このあたり一帯の土地を広く所有していた同郷の野々村家だったかもしれず、巨大な野々村邸の設計・建築自体も、ひょっとすると吉武が手がけているのかもしれない。
 余談だけれど、佐伯祐三Click!とパリで一緒だった横手貞美は大分県の宇佐出身の父親をもつが、彼も渡仏前に上落合に住んでいる。どこかで、「大分村」とのつながりがあったものだろうか?
 吉武東里は当初、宮内省東宮御所御造院に勤務していたが、国会議事堂(当時は帝国議会議事堂)のコンペに1等入選したのをきっかけに、議事堂建設主管として大蔵省へ引き抜かれている。17年の歳月をかけて議事堂が完成したのち、1937年(昭和12)に突然彼は役所を辞めてしまう。役所での自分の仕事は終わったと考えたのか、それとも早く独立して自身の設計事務所を持ちたかったものか、詳細はご遺族にも詳らかではなかったようだ。
 
 
 だが、戦争が激しくなるにつれ、新しい建築の仕事は日に日に減っていくことになる。1940年(昭和15)に開催が予定されていた万国博覧会Click!において、大熊喜邦のもと設計課長として迎えられたが、日本での万博開催そのものが戦争のために流れてしまった。ひょっとすると、大熊との間で早くからプロジェクトチームの話が出ており、予定されていたEXPO’40で存分に腕がふるえるのを、吉武は楽しみにしていたのかもしれない。
 日米開戦ののち、米軍の空襲が予想される1944年(昭和19)、吉武は東京を離れ郷里の国東へと疎開している。国会議事堂の建設のあと、納得できる作品が残せなかったことで、失意の帰郷だったのかもしれない。翌年の敗戦直前、円熟した作品を産みだせるのはまだまだこれからという時期に、59歳で他界している。
 
 現在の上落合「大分村」界隈は、空襲で一帯が焼け野原になったせいか、当時の面影はまったく残っていない。旧・吉武邸には、いまでは6軒の住宅が建ち並んでいた。広大な旧・野々村邸が、丸ごと落合第二小学校となっているのが目立つ。このあたりには、関東大震災Click!のときに付近の住民が逃げこんだ、濃い孟宗竹の竹林が多く見られたそうだ。

■写真上:現在の上落合470番地。300坪の吉武邸跡には、戦後の住宅が建ち並んでいた。
■写真中上:左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる吉武邸。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる吉武邸。南側には、広大な野々村邸の敷地が拡がっている。
■写真中下:吉武東里の代表作。上左が帝国議会議事堂(国会議事堂)で、上右が「クイーンの塔」と呼ばれる横浜税関。下左は下落合の島津源吉邸、下右は同じく下落合の刑部人邸。
■写真下:いずれも上落合の吉武東里邸跡。左は敷地を南西側から、右は西側に接した道路。