目白駅のすぐ西側、下落合の通称「近衛町(このえまち)」Click!に建つ藤田邸の庭園に残る「水琴窟(すいきんくつ)」を調査し、音色を甦らせる活動に参加、見学してきた。水琴窟は、別名「洞水門(とうすいもん)」とも呼ばれていたようで、江戸時代に庭師たちによって普及したと伝えられているが、その歴史には謎が多い。江戸中期の茶人であり、庭園造成も手がけた小堀遠州の発明だとする説もあるけれど、さだかではないようだ。
 手水鉢(ちょうずばち)から流れ落ちる水の滴りが、地面に逆さまにして埋められた甕(かめ)の中に落ちると、空洞の中で水滴が反響し、まるで琴のようなサウンドを響かせるというしかけだ。江戸期に多くの水琴窟が造られたようだがほどなく廃れ、明治以降の日本庭園で再びブームとなったが、昭和に入るころには造られなくなり、戦後はその存在さえほとんど忘れられてしまったらしい。そんなめずらしい、風流で貴重な水琴窟のひとつが、近衛町の藤田邸に現存していた。
 水琴窟の音を甦らせるためには、地中の甕の中に長年にわたって堆積したヘドロや水を取り除かなければならない。藤田邸の庭園は、カフェ「花想容」Click!に接しているので、定休日に作業を行うことになった。水琴窟用に開発された専用機材を手に作業を行うのは、NPO法人・日本水琴窟フォーラムClick!の理事である加藤さんをはじめスタッフのみなさんだ。午後1時30分に藤田邸へ集合し、1時50分ごろから作業をスタート。ブログ開設以来、親しくさせていただいているMyPlaceClick!の玉井さんたちとともに、わたしも立ち会って見学させていただく。
 まず、埋められた甕の上に積まれた、たくさんの丸い川原石を取り除く。(写真①) コンクリートで固められたすり鉢状の底から、すぐに甕の底に開けられた水門(すいもん)と呼ばれる穴が姿を現した。(②) 2時15分、水門から甕の中にたまった泥水の吸い出しを開始。(③) 吸水に活躍したのは、吸引力が強い業務用の掃除機だ。(④) 工夫された吸い口を水門の中に入れ、何度となく繰り返し泥水を吸い上げていく。(⑤) 当初は、30cmを超えてたまっていた泥水が、40分ほどの吸い出し作業で20cmほどになる。
  
  
  
 2時55分、作業を中断して水琴窟の音色を試聴してみる。(⑥) 試聴管を通して響いてきたのは、なんとも美しく微妙かつ繊細な金属琴のようなサウンドだ。つづけて、もう少し水を吸い出し15cmほどの水位になったところで、再び試聴。(⑦) 今度は、甕内の反響が前回よりも大きいらしく、低音域の倍音が多めな妙なる調べが聴こえてきた。(個人的にはこちらの音のほうが気に入った) 20cmの水位のほうが音がよかった・・・という意見が出されて、この水琴窟の理想的な水位は20cmと設定。試聴音は、二度とも録音された。
 甕内に堆積したヘドロを除去する作業の前に、甕の大きさを水門から探って推測する。(⑧) 棒やアルミの針金などを用いて推測された甕のサイズは、高さ(深さ)が約570mm、最大の直径が約550mm、逆さになった開口部の直径が300mm余ということがわかった。一般住宅の庭に造られた水琴窟としては、どうやら最大クラスの作品らしい。また、水門からうかがえる甕の材質や硬質な音色から、おそらく1500度ぐらいの高温で焼成された素焼きの甕である可能性が高いこともわかった。3時30分、ヘドロの除去作業を開始。(⑨) 途中、吸入管が詰まり、堆積していたヘドロが意外に固いことがわかる。富士山の火山灰である関東ローム層の赤土が固まると、清掃がかなりやっかいだとのこと。3時55分、多くのヘドロを吸い出し、再び甕の形状を探る。逆さまになった開口部がやや狭くなっているが、およそ釣鐘型をした素焼きの甕らしい。約2時間ほどかけた清掃作業がほぼ終わり、午後4時すぎに小休止。
 わたしは、藤田様が差し入れてくださったオヤツをしっかりいただいたあと(爆!)、打ち合わせの時間が迫ったので4時30分に失礼してしまった。その後、甕内を理想の水位にもどし、水門の上に川原石を積み重ねて作業は終了している。この調査およびクリーニングの詳細な経緯については、日本水琴窟フォーラムがこの6月に発行したばかりの機関紙「水琴窟」第2号にレポートを書かせていただいた。ご希望の方は同フォーラムへご連絡いただくか、わたしに連絡をいただいてもいいし、またはカフェ「花想容」へ行かれればご覧いただけるのではないかと思う。

 
 藤田邸Click!は、1922年(大正11)に近衛町が造成されるのとほぼ同時期に建築されている。もともとは、近衛篤麿Click!邸が建っていたところで、篤麿の死去とともに子息の近衛文麿Click!があとを継ぐけれど、多くの負債を抱えた同家はほどなく、下落合の広大な敷地の大半を手放すことになった。近衛家は、篤麿が設立した東京同文書(目白中学校Click!)に隣接した敷地へ、新邸を建てて転居している。旧篤麿邸の広大な敷地は、東京土地住宅(株)の常務取締役で文麿の友人でもあった三宅勘一が「近衛町」と名づけ、1922年(大正11)に坪あたり平均68円50銭で分譲を開始している。しかし、1925年(昭和14)に東京土地住宅の経営が破綻Click!すると、同じ下落合に目白文化村Click!を開発していたライバルのディベロッパーである箱根土地(株)が、近衛町の開発や販売の一部を東京土地住宅からそのまま継承している。
 藤田邸の建築は東京土地住宅の時代、すなわち近衛町が成立した初期のころから同地に建っていた。1924年(大正13)より鈴木邸となっていたが、1932年(昭和7)にそれ以前から下落合にお住まいだった藤田様が入居されて現在にいたる。水琴窟は、藤田様が入居する以前から存在しているので、おそらく邸の建築当初から庭園内に造られていたものだろう。ちなみに、藤田邸の位置は広大な近衛篤麿邸の寝室だったあたりに相当するらしい。
 下落合では最近、藤田邸以外でも水琴窟を見かけたことがある。重層長屋(実質マンション)の建設で裁判中の、タヌキの森Click!に建っていた旧・E邸、すなわち前田子爵邸の移築建築である服部政吉建築土木事務所Click!の庭園だ。そこには、あまりにも巨大なために神田川の水運を利用して、ようやく目白崖線(バッケ)の上まで引きずって運び上げたと伝えられる、5mを超える鞍馬石の式台が置かれた近くに、これまた大きな手水鉢が据えられた水琴窟が見られた。
 
 明治以降、和式の庭が造園されれば、そこには必ず水琴窟が造られた・・・という時代があったらしい。「鹿威し(ししおどし)」とともに、和庭にはいたってポピュラーな細工だったようだ。鹿威しは音が大きいため、一般の住宅には水琴窟が好まれたとも聞く。鹿威しは戦後も造られつづけたけれど、水琴窟はその庭師技術とともにすっかり忘れ去られてしまった。だから、古い日本庭園が残っていれば、水琴窟は日本じゅうどこにあってもおかしくはない。目白・下落合界隈には古い邸が多いので、それと気づかれずに眠っている水琴窟がまだまだありそうだ。お心あたりの方は、ぜひこの記事のコメント欄へでも一報いただければと思う。
 わたしは、水琴窟の音を初めて耳にしたとき、少し風がある秋のカラッとした透明な空気の中、奈良の鄙びた旅館に寝ていると遠くから響いてくる寺の風鐸の音色を想い出してしまった。藤田邸の水琴窟は、造られた当初の音色を取りもどしているだろうか。今度、「花想容」へコーヒーを飲みに寄ったときにでも、ぜひ聴いてみたいと思っている。その繊細で妙なるサウンドは、大正期の下落合のあちこちで響いていた音色にちがいない。

■写真上:藤田邸の水琴窟と、地中に埋められた甕の水門(空洞の甕内へ落ちる点滴口)。
■写真中上:水琴窟を甦らせる作業中の、日本水琴窟フォーラムのスタッフのみなさん。
■写真中下:上は、近衛町が開発された1922年(大正11)当時の地形図。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる藤田邸(当時は鈴木邸)。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる藤田邸。邸の西には、洋画家・安井曾太郎の自宅と北に面したアトリエが確認できる。
■写真下:タヌキの森の広い庭園にあった、水琴窟全景と手水鉢。