東京の下町では、空襲Click!が予想される1944年(昭和19)になると、「建物疎開」ということが盛んに言われだし、事実、数多くの住宅や事務所が防火を理由に破壊された。実家のあった東日本橋Click!では、両国広小路をはじめ案外広めの通りがあったため、建物疎開はそれほどひどくはなかったけれど、大川向こうの深川・本所・向島地区では、数多くの家々が取り壊されている。実際には、B29による密度の濃いナパーム焼夷弾の絨毯爆撃Click!に、建物疎開などほとんどなんの効果もなく、街丸ごとが全滅状態だったのだけれど。
 さて、下落合ではどうだったのだろう。家々の敷地が下町Click!に比べて広く、緑地も多く残る目白・下落合界隈なのだが、建物疎開はしっかり行われていた。わたしは1947年(昭和22)にB29によって撮影された、爆撃効果測定用の空中写真を眺めながら、家々が消滅している部分はすべて山手空襲によって焼けたのだろうと考えていた。ところが、実際には建物疎開によって破壊された家々がたくさんある。当時、目白通り沿いと西武電気鉄道沿いの家々が、建物疎開の対象になっている。特に、目白通り沿いは徹底して実施されたらしく、通りの南側、つまり下落合側のみが、幅20mにわたって建物疎開が強制された。


 「疎開」というと、なんとなく学童疎開の連想からか、どこかへ建物を避難させる・・・というようなイメージが湧くのだけれど、建物疎開は家々をどこかへ移築するわけでも建て替えるわけでもなく、単に打(ぶ)ち壊すだけだ。だから、建物疎開の指定を受けた家の住民は、ただ自分の家がなんの補償もなく壊されていくのを、呆然としながら見まもるしかなかった。戦後、1946年(昭和21)にまとめられた、日本地図株式会社による「東京都35區區分地図帖」には、建物疎開で壊された街角(グリーン)と、空襲によって焼けた区画(ピンク)とが明確に色分けされて描かれている。(ただし、空地や緑地帯もグリーンで塗られている)
 目白通りを見ると、目白駅Click!のすぐ西側にはじまり、目白文化村Click!は第一文化村の北側、府営住宅Click!のエリアで文化村のバス停や交番のあった二叉路Click!のあたりまで、約1,500mほどが建物疎開帯に指定されている。通りの南側(下落合側)に建っていたすべての商店や家々が、幅20mにわたって破壊されたのがわかる。目白福音教会Click!も英語学校Click!も、郵便局を兼ねていた酒店・鶴屋も佐久間製粉工場も、わたしはすべて空襲によって焼失したと思っていた。ところが、まったく違うのだ。これらの建物は、すべて空襲前に破壊されている。
 
 下落合で建物疎開が実施されたのは、1944年(昭和19)も押し詰まった時期ではないかと思われる。同年の秋あたりに撮影されたとみられる陸軍の空中写真には、いまだ目白通りの南側にはちゃんと家々が残っている。建物疎開が開始されたのは、この年の秋以降ではなかろうか。建物の解体は、現在のように作業員が建物に取りついて、家を1軒ずつ順番に壊していったわけではない。目白通りに轟音を立てて姿を現わしたのは、解体作業員たちを乗せた車両ではなく、おそらく戸山ヶ原の演習場からやってきた陸軍の戦車だった。家屋の支柱にロープをくくりつけ、それを戦車で引っぱって店舗や住宅を一気に引き倒していったのだ。これにより、目白駅から第二府営住宅のあたりまで、短期間で目白通りの「拡幅防火帯」化が完了している。目白駅の金久保沢Click!あたりは、南側へ切り立った崖が露出して通行には特に危険だったようだ。
★その後、目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 1945年(昭和20)の4月13日Click!と5月25日Click!の二度にわたり、下落合界隈は大規模な空襲にみまわれる。戦後に作成された「東京都35區區分地図帖」をチェックすると、落合町と高田町そして長崎町とも、建物疎開で拡げられた防火帯としての目白通りが、ほとんどなんの役割りもはたさなかったことが一目瞭然だ。B29から投下された焼夷弾は上空で炸裂し、文字どおり絨毯を敷くように雨あられとバラまかれていった。戦車で通り沿いの建物を壊そうが壊すまいが、ほとんどなにも延焼状況は変わらなかっただろう。むしろ、建物の延焼を防いだのは、下落合に残る濃い森や屋敷林のみどりClick!だったのは、なんとも皮肉なことだ。5月25日の空襲のとき、わざわざ1937年(昭和12)の林泉園Click!の姿を描いてくださった斎藤様は、目白通り沿いは危険だと判断され七曲坂の東側、道沿いにヒマラヤスギが植えられた権兵衛山Click!(大倉山)の森まで避難されている。
 
 自宅や店舗が、「敵」による攻撃によって破壊されたのならあきらめもついただろうけれど、「味方」であるはずの陸軍の戦車によって引き倒されたわが家を前に、住民たちは持って行き場のない怒りをおぼえたことだろう。このとき日本は負けると、明確に意識した人たちもかなりいたと思われる。下町では、米軍による空襲の実際さえまともに分析できず、防火ハタキとバケツリレーの訓練をするだけで「防空の備へはよいか」などと精神論をふりまわしていた、無策無能な当時の為政者や当局者たちへ、住民たちの怒りは敗戦を待たずに向けられていく。

■写真上:20m×1,500mにわたって建物疎開が行われた、目白通りの南側の現状。戦後、住民の多くは再びもとの敷地へともどり、苦労をされて商店や住宅を再建している。
■写真中上:上は、1946年(昭和21)に作成された「東京都35區區分地図帖」(日本地図)に描かれた、目白通りの建物疎開区画。(グリーンの帯) 下は、1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された空中写真にみる目白通りで、まだ建物疎開は行われていない。
■写真中下:左は、1935年(昭和10)に開発された陸軍の九五式重戦車。右は、かろうじて建物疎開や空襲をまぬがれたメーヤー館Click!跡(日本聖書神学校)あたりの現状。
■写真下:同地図にみる、高田町や長崎町における空襲被害の様子。建物疎開はほとんど行われていないが、住宅街は絨毯爆撃を受け焼け野原となっていたのがわかる。ただし落合町の地図もそうだが、空襲で焼けた区画の描きこみが実際の被害区画と比較すると、かなり大雑把だ。