近衛篤麿Click!が建設し、いまの近衛町に建っていた旧・近衛邸の敷地を売りに出して、目白通りも近い目白中学校Click!(東京同文書院Click!)の南側へ近衛新邸を建てて近衛家が転居するころ、篤麿の死後に当主となっていた近衛文麿Click!はなにを考えていたのだろうか? 旧・近衛邸の売却に先立ち、1917年(大正6)と翌年の二度にわたり、近衛家財産の大規模な売り立て(オークション)が下落合で行われていることは、以前、刀剣売り立てを中心にこちらでもご紹介Click!した。それと同時に、文麿は知人が役員をしていた東京土地住宅(株)へ、のちに近衛町Click!と名づけられる一帯の敷地売却の話を持ち込んでいる。
 父・篤麿がこしらえた膨大な借財のため、文麿は借金取りに追われていたのだ。彼らは連日のように下落合の近衛旧邸へ押しかけ、玄関先には大勢の債権者が居座っていたらしい。中には、借用書を偽造して返済を迫ったゴロも大勢いたらしく、また篤麿の死後に手の平を返すように冷淡になった「友人」たちも多く、文麿の生涯にわたる人間不信はこの時期に植えつけられたらしい。後年、文麿が政界へ進出すると、これら「借金取り」たちが再び豹変してスリ寄ってきたことも、文麿の人間不信をますます深めさる結果となったようだ。
 旧・篤麿邸一帯の売却話を進めているころ、文麿はつくづく日本がイヤになっていた。身のまわりの生活環境に嫌気がさしたせいもあるのだろうが、それにも増して、欧米に比べがんじがらめの因襲にとらわれた日本の社会に嫌悪感を抱いていた。1920年(大正9)に発行された『婦人公論』2月号のインタビューで、文麿はつい本音をしゃべってしまったようだ。婦人向けの雑誌ということで、気を許していたのかもしれない。「不愉快な日本を去るに際して」と題された記事が発表されるや否や、文麿は批判の矢おもてに立たされることになった。
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 如何に日本が住み悪いからといつて、日本人である以上、仕事の関係から云つても永久に日本を去るといふことは出来ない。若し容赦なく云ふならば、実際この現在の日本は決して住みよい国とは思はれない。何が不平の点かと問はるゝならば私は即座に『見るもの聞くもの不平の種ならざるはない』と答へる。手近な衣食住は勿論のこと、あらゆる事物が因襲と不完全と不自然とに束縛されてゐて、事々物々根本的改善を要するものばかりである。  (同誌「不愉快な日本を去るに際して」より)
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 文麿の主張は、日本の衣食住にまつわる文化全般や生活上の因襲が、ヨーロッパ諸国に比べすべて拙劣で煩雑だとしたうえで、不愉快きわまりないから日本を離れて一家で「外国へ行かう」というものだった。彼が不愉快だと感じていたものには、次のようなテーマや課題があった。
■煩雑な華族社会の因襲
 ゴタゴタと旧習に囚われた華族社会を「大嫌ひ」とし、「生活を平易にせよ」と主張している。
■平民的な英国の皇室
 英王室は平民の目線で生活しており、民間の実情に通じている。(言外に日本もそうすべき)
■結婚の不自由な社会
 日本の結婚は因襲だらけで、旧来の身分制度を中心にその自由度が狭くてまったくダメだ。
■米の飯の廃止
 米ばかり食べる日本人は、米食を思い切って廃止しパン食に統一すべきだ。
■煩雑極まる住宅と衣服
 外出は洋服で家庭内では和服の煩雑さや、家ではいちいち靴を脱ぐなど大幅な改良が必要。
■世界一の悪道路
 自動車道は危険で泥まみれ、電車のラッシュは日本のみの珍現象で悲惨きわまりない。
■労働者と下女
 プロレタリアはもっと権利を自覚し、労働者は社会的に尊重されなければならない。
■話しにならぬ日本婦人
 日本婦人は使用人に頼ってなにもしないが、自分でなんでもこなせる欧米婦人を見習え。
 
 別に、海外移住をするために取材記者へ語ったわけではないようだが、右翼には「日本をさんざんけなしてから海外へ逃亡する」と映ったらしい。下落合の近衛旧邸には、雑誌が発売された直後から脅迫状が舞いこみ、「壮士」を名乗る右翼が次々と押しかけてきたようだ。当時の文麿は、河上肇などからのマルクス主義の影響が色濃く残り、労働者の権利向上や共和制への憧憬ともとれる言質が、当時の右翼のカンに触ったのだろう。身の危険を感じた彼は翌々月、1920年(大正9)の『婦人公論』4月号へ「弁明」と題する文章を早々に寄せている。
 近衛文麿はのちに、陸軍の圧力や「観念右翼」の閣僚に次々とおもねるような言質を繰り返し、またクリティカルな政治案件へそのつど曖昧な態度に終始することで、結果的に戦争への道をまっしぐらにたどることになるのだけれど、この『婦人公論』事件のときの恫喝やテロルの脅しの経験が、どこかにトラウマとなって残っていたのかもしれない。

■写真上:1921年(大正10)ごろに移ったとみられる、下落合の近衛新邸があったあたりの現状。
■写真中:左は、1920年(大正9)の『婦人公論』2月号に掲載された、近衛文麿へのインタビュー記事「不愉快な日本を去るに際して」。右は、翌々月の『婦人公論』4月号に掲載された「弁明」。
■写真下:左は、明治末に軽井沢の旧・三笠ホテルにおける毛利家午餐会へ出席した近衛文麿(左端)。人々が笑顔を見せる中、ひとり浮かない顔をしている。右は、軽井沢に現存する近衛家別荘。