戦前、わたしの実家の斜向かいには、千代田小学校(現・日本橋中学校)との間にはさまれて、すずらん通りClick!沿いに丸見屋本社のビルが建っていた。いまでは、カゴメ東京本社のある一画だ。丸見屋商会というとわかりにくいが、ミツワ石鹸Click!といえば記憶されている方も多いだろう。ミツワ石鹸の社長だった三輪善太郎Click!は、下落合の七曲坂の上に大きな邸をかまえて住んでいた。この丸見屋の給料日になると、ポロを着た男がウロウロとすずらん通りをやってきては、受付に居座ってテコでも動かない。それまで描きためた絵を、押し売りにやってきた長谷川利行Click!だ。
 長谷川は、丸見屋の社長を訪ねてきたのではなく、矢野文夫に紹介され当時は同社の社員だった衣笠静夫へ絵を売りに来た・・・というと聞こえはよいが、要するに給料日を見すまして“たかり”にやって来たのだ。知人ができると、描いた絵を持っては訪れ、おカネを出すまでは絶対に帰らなかったというから、「良心的」な「リャク」Click!に近い行為だったようだ。そのせいか後年、長谷川利行のことは顔も見たくないし、口に出して語りたくもないという人たちが大勢いた。頼みもしないのに肖像画を無理やり描かされ、それを押しつけられた著名人たちもいる。下落合でも登場する機会が多い岸田国士Click!や、戸山ヶ原Click!近くの西大久保に住んでいた前田夕暮Click!も、画材の費用までモデル持ちの肖像画を押し売りされた「被害者」だ。その様子を、2000年(平成12)に出版された『長谷川利行画文集 どんとせえ!』(求龍堂)から引用してみよう。
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 岸田の場合も、二科展に出品するからと、当時岸田のもとにいた矢野に紹介させ、本人からは画材の費用から画料まで支払わせた。それでも、そのお互いの微妙な関係を緊張感のなかにちゃんと描いているのだから、利行の対象を描きとる能力は本物だ。前田夕暮の肖像画は翌一九三一(昭和六)年の二科展にそれぞれ出品されたのだが、利行の場合やはりそれだけではおさまらない。前田も岸田も押し売りの良い標的にされている。そして、この頃矢野の紹介で知り合った丸見屋(ミツワ石鹸)の衣笠静夫も標的にされた一人である。衣笠は利行が養育院に入院した際見舞いに出かけているし、随分長い年月関係を保っていたようだ。当時の様子を衣笠の周りにいた人が回想している。「当時まったく顧みるものもなかった洋画家長谷川利行も、その作品をしばしば静夫に買ってもらっていた(略)」「風采のあがらない、いつもボロボロ服の長谷川さんが、月給日になると必ず来訪されて、お小遣いや飲代をせびり(略)」「弊衣の長谷川利行が乞食同然の姿で丸見屋に出入りするのに店では困った(略)」。 (同書「描かれた人々」より)
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 文中で(略)とした箇所は註釈で、1974年(昭和49)に出版された宮崎博史・著『ロマンと広告 回想衣笠静夫』(東京広告協会)などからの引用箇所だ。そして、衣笠静夫がどこに住んでいたのかといえば、ミツワ石鹸の三輪邸にもほど近い下落合だった。※ 長谷川利行は、天城画廊との関係から新宿近辺の街並みを描き出すのは1936年(昭和11)からだけれど、それ以前にも代々木や大久保など東京の西部へちょくちょく足を運んでいるのは、残された風景作品からも明らかだ。
 そしてなによりも、1930年協会Click!へ参加していた長谷川は、敬愛していたと思われる佐伯祐三Click!や里見勝蔵Click!のアトリエや自宅を訪ねて下落合へ足を踏み入れていたにちがいない。ましてや、作品を必ず買い上げてくれていた丸見屋の衣笠静夫が住んでいれば、ことさら足繁く通ったのではないか。さらに、利行が想いを寄せた洋画家・藤川栄子Click!も、西武電気鉄道をはさんで下落合のすぐ南側、戸塚町に住んでいたとなれば、なおさら街を彷徨するのが好きな彼のことだから、下落合の七曲坂を上ってやって来ないわけがないのだ。
※衣笠静夫が下落合の三輪邸離れへ住みつくのは1946年(昭和21)からであり、戦前は池袋に住んでいたという情報をいただきました。詳細が判明しだい報告Click!します。
 
 長谷川利行は、1927年(昭和2)の1930年協会展第2回展Click!から出品をはじめるとともに、佐伯の生前も死後もその作品に対して好意的な画評を寄せている。もっとも、その内容は意味不明のものが多いけれど、おしなべて非常に好感を抱いていたことだけは、その文面からも感じとれる。また、佐伯は利行が第2回展へ出品した3点の絵を特に好きだったことが、前田寛治が書いた展評からもうかがえる。その3点とは『公園地帯』と『陸橋』、そして『郊外』だ。
 1940年(昭和15)7月10日、胃がんで余命いくばくもなくなったころ、利行は行き倒れで収容された板橋の東京市養育院養護寮第二男室から、衣笠静夫あてに手紙を書いている。
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 拝啓、先日ハ御来駕千万忝ケナク思ヒマシタ。手術良好ニテ男室デ養生シテ居リマス。近日退院シマス。而シテ故郷京都ヘ十数年ブリニテ帰京ト決定シ、父ノ遺産デ暮ラシマス。此ハガキ着次第、ユカタ一枚(古キモノニテ忝ケナク思ヒマス) ミツワ石鹸一箱送与シテ慾シイ。ミツワ肝油ドロツプス一瓶、ホシイト思ヒマスガ。 (同上)
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 利行は、片想いの相手だった藤川栄子にも養育院から手紙を出し、「西洋の草花とパンと西洋菓子を持って来てくれないか」(藤川栄子『長谷川さんの思い出』)と書いたが、彼女は多忙で手紙をそのまま「うっちゃっといた」(同上)らしい。衣笠静夫が見舞いに訪れてから、およそ3ヵ月後の10月12日に死亡している。彼がもっとも気に入って持ち歩いていた作品やスケッチブック、日記などの手荷物は、東京市養育院の規則により死後すべてが焼却された。利行の友人たちが死を知ったのは、さらに3ヵ月後の翌年1月になってからのことだ。

■写真上:左は、1928年(昭和3)に描かれた長谷川利行『靉光像』。右は、昭和初期の利行。
■写真中上:左は、1930年(昭和5)に無理やりモデルにさせられた『劇作家(岸田国士肖像)』。右は、やはり強引にモデルをやらされた1930年(昭和5)制作の『ポートレエ(前田夕暮氏像)』。
■写真中下:左は、1930年(昭和5)に描かれた『代々木風景』。このほか、東京郊外の戸山ヶ原あたりを書いたとみられる作品も残っている。右は、1938年(昭和13)に制作された『ピアノのある洋室』。いかにも、下落合あたりにありそうな“中流”家庭の応接間を描いた作品だ。
■写真下:左は、下落合の旧・三輪善次郎邸の現状。右は、1925年(大正14)ごろに撮影されたとみられる、千代田小学校(現・日本橋中学校)の屋上から旧・両国橋方面を撮影した人着写真。昭和に入ると、すぐ手前の一画に丸見屋商会本社ビルClick!が建設されている。わたしの実家は、写真の左手枠外で見えないが、すずらん通りに面していて村田キセルや立花屋菓子店の並びにあった。親父の母校である千代田小学校には一時期、辻潤Click!が英語教師として勤務している。