檀一雄が上落合に引っ越してきたのは、モチーフとしての“落合”Click!を描きたかったからなのかもしれない。ボヘミアン的な洋画家になりたかったらしい彼は、1932年(昭和7)に入学した帝大へはほとんど顔を出さず、キャンバスとイーゼルを手に肩から絵道具をぶらさげながら上落合から下落合、あるいはときにバッケ堰Click!の向こう側の上高田Click!や井上哲学堂Click!方面まで遠征して、大正期から流行りだしていた「落合風景」を制作していたらしい。現在、これらの作品をまったく目にすることができないのは、檀が生前に処分したものだろう。
 檀一雄は最初、上落合に建っていた大きな文化住宅を友だち同士で借りていたが、すぐにカネが底をついて困窮し、格安の棟割り長屋へと転居している。1棟借りても2棟借りても家賃が15円だった長屋は、若い男女の首つり心中があったばかりで、借り手がつかない物件だった。上落合2丁目829番地にあった長屋は、のちに檀が尾崎一雄を呼び寄せてから「なめくぢ横丁」と呼ばれるようになる。ちょうどそのころ、西武電気鉄道の中井駅前にあった白い公衆電話の向かい、旧・下落合3丁目1909番地あたりの寺斉橋もほど近い一画に、「喫茶店ワゴン」がオープンしていた。
 
 「喫茶店」と銘打っているけれど、コーヒーも出すが1杯10銭のウィスキーも出すという店で、実質はバーと変わらない。萩原朔太郎の元夫人・萩原稲子が“ママさん”をつとめる、下駄屋の物置きを改造してペンキを塗っただけの小さな店だった。カウンターと小さなテーブルひとつの、7~8人も入れば身動きがとれない小さな店で、蓄音器からはしじゅうシャンソンが流れていた。店をデザインしたのは、近くに住む詩人の逸見猶吉で、開店後はもちろん常連になっている。逸見のほか、上落合とその周辺に住んでいた宍戸義一、石川善助、草野心平らが常連だった。絵を描くのがうまい檀は、のちに「ワゴン」の看板制作を頼まれることになる。
 目白商業(現・目白学園/目白大学)でそのころ講師をしていた伊藤整も、百田宗治らと連れ立って通っていた「ワゴン」だが、近くに住んでいた檀一雄や林芙美子が顔を出すようになるのに、それほど時間はかからなかった。檀はこの店で、落合火葬場Click!近くに住む古谷綱武と知り合い、やがて高田馬場駅近くの諏訪町に住んでいた尾崎一雄を、上落合の首つり長屋へ呼び寄せることになる。もともと文士たちが数多く住んでいた落合地区だが、檀や古谷、尾崎らが「ワゴン」へ出入りするようになると、多くの小説家や詩人が上落合や同店へ頻繁に姿を見せるようになる。
 
 そのころの「ワゴン」の様子を、1985年(昭和60)に出版された野々上慶一『さまざまな追想』(文藝春秋社)から引用してみよう。当時、野々上は武田麟太郎と連れ立って、1933年(昭和8)に創刊されたばかりの「文学界」へ原稿を書いてもらうため、旧・下落合は五ノ坂の「お化け屋敷」のほうの林芙美子邸Click!へと出かけ、帰りに「喫茶店ワゴン」へ立ち寄っている。ちなみに、武田麟太郎も下落合の目白会館Click!や、上落合などの住居を点々としていた。
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 林邸は、その頃赤い屋根、青い屋根の文化住宅とよばれた、和洋折衷のハイカラな家が建ち並ぶ下落合にあって、門を入ると立派な花壇のある瀟洒な住宅だった。原稿の方は心配したほどのこともなく、快く引き受けてくれ、ビールなど出して、芙美子は小さなからだを小まめに動かして、もてなしてくれた。芙美子はちょっと斜視だったが、その眼のあたりに、なにか人をひく魅力があるな、と私はひとり思った。/帰る時、芙美子は中井駅まで送るといって一緒に出て、途中たしか「ワゴン」とかいう名の、西部劇の幌馬車を模したような造作の喫茶店か、スタンドバーに、誘われて入った。この店は、詩人萩原朔太郎の若い夫人が経営していたようだった。そこに文学青年風の若い男が三人、とぐろを巻いていて、太宰治、檀一雄、古谷綱武と芙美子に紹介された。三人共長髪で、和服の着流し姿だったようにおぼえているが、古いことで、みなでどんな話をしたか、まるで記憶に浮ばない。
                                       (同書「編集室は四畳半」より)
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 当時、杉並の天沼に住んでいた太宰治は、下井草から西武電鉄に乗って中井駅で下り、上落合の檀の家へ毎日のようにやってきていた。長屋の表から「ダ・ン・ク・ン!」と、まるで小学生が遊びの誘いに来たような声をあげていたらしい。そのあとふたりは、すぐに中井駅前の「ワゴン」へと流れたのだろう。心中事件のあった、檀一雄が暮らす2階部屋の垂木(たるき)を眺めながら、「よくこんなところで死ねるねえ・・・」と苦笑していた太宰の様子が伝えられている。「ワゴン」は、タダイストやアナーキストが集った「バーあざみ」Click!とは、また違った雰囲気のコミュニティを形成していった。
 尾崎翠Click!の住まいから、南へ100mほどのところにあった上落合の首つり長屋が、そのうち「なめくぢ横丁」と呼ばれるようになったころ、この地域は東京じゅうの文士たちをさらに集めて賑わい、のちに「落合文士村」と呼ばれるようになるのだけれど、それはまた、別の物語……。

■写真上:檀一雄や尾崎一雄が暮らした、上落合829番地の「なめくぢ横丁」あたりの現状。
■写真中上:左は、1932年(昭和7)撮影の寺斉橋と中井駅前の様子。画面左手に駅前広場があり、「御傘・履物/松前屋」が見える。下駄屋に接している物置きのような角に、「WAGON」の看板と側面の「○ゴン」の文字が見えている。右は、「ワゴン」側から撮影した寺斉橋の現状。
■写真中下:左は、上掲写真の下駄屋を拡大した写真で、檀一雄が最初に「ワゴン」を見たころの風景。右は、1955年(昭和30)ごろの中井駅踏切で、右手に見えているのが中井駅前の広場。
※治虫さんより、西武電車の車体塗装が塗り分け(ツートンカラー)になるのが昭和36年以降というご指摘を受けました。詳細は、コメント欄をご参照ください。
■写真下:左は、上落合で絵を描きながら暮らしていた檀一雄。右は、杉並の天沼に住み中井駅前の「ワゴン」があった旧・下落合3丁目へ通ってきていた太宰治。