1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三の「踏切(踏み切り)」Click!を、所蔵先の出光美術館で細見してきた。同作品を、これほど間近で長時間、仔細に観察したのは初めてのことだ。案のじょう、画集や図録ではわからない佐伯の筆運びClick!や、下塗り・重ね塗りの手順、描かれている人物や看板の文字類などがハッキリと観察できた。
 まず、画面の中央右寄りに見えている武蔵野鉄道線のガードだが、その向こうが明るいのは陽光の反射ではない。家々の上部に、透明性の高い明るい水色の絵具を乗せた空が、もともと描かれているのだ。ニスの塗りかえ時の洗浄Click!で、表面の色が落ちてしまった可能性もある。ガードをくぐってすぐ左手に見える、灰色の屋根瓦が重々しい日本家屋は、雑司ヶ谷字中谷戸見行島830番地にあった鳥居マークのある「本山○○神社」。神社の東隣りは、1926年(大正15)の6月現在は空地となっており、その向うに少し大きめの「加藤直蔵」邸や「池谷」邸と思われる家々が見えているのは、当時の「高田町住宅明細図」(1926年6月)と佐伯の画面とがよく照応している。
 また、ガードを出たあたりにたくさんの人々が集まって、右側(南側)を向いているように描かれているのも新しい発見だ。ガードを出た右手には、目白・池袋界隈でも最大規模の園芸農場「ヤマト種苗農具株式会社」があったところ(巣鴨代地3523~3525番地)で、近所の農家の人々が集団で種苗か農具を買い付けにきているのかもしれない。もし、野菜類の種苗の買い付けだとすれば、1926年(大正15)の初秋あたりの作品の可能性が、踏み切りをわたってガードの方角へと歩いていく手前の人物の軽装ともども、きわめて高いと思われる。

 
 また、人が集まる別のとらえ方としては、本山○○神社の祭礼という可能性もある。ガードへ向けて歩く人物は男性と思われるが、その背中には白と赤の大きなお太鼓帯のようなものが見えている。これを、帯の背に挿した団扇だと解釈すれば、祭礼の雰囲気が濃厚になり、やはり9月上旬から中旬の可能性が高いことになる。本山○○神社の、○○の部分の字がどうしても読めない。稲荷でも権現でも、厳島、賀茂、天祖、御嶽、高良、三宝、鉱山でもない。現在、この位置に神社は存在していないけれど、いったいどのような“聖域”が存在したのだろう? そして、本殿(堂)Click!などのかたちはどのようなものだったのだろうか?
 踏み切り番小屋や、その背後の鉄塔の様子も細かく観察できた。踏み切り番は、たったいま遮断機を下そうとしているところのようで、山手線の電車か貨物列車に対して(つまり線路側へ向けて)、まだ赤い旗を手にしている。遮断機を下ろし、踏み切りに横断者がいないことを確認してから、赤旗を白旗に持ちかえて列車に合図を送るのだろう。佐伯の同作から8年後、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』には、この踏み切りをとらえた貴重な写真が掲載されているが、山手線が通過する踏み切りの両側で白旗をふる、ふたりの踏み切り番の姿がとらえられている。踏み切り番小屋の背後は、「高田町住宅明細図」では小さな広場が描かれており、その向うにアパートか下宿らしい建物が存在するのも、佐伯の画面とよく一致している。アパートの2階窓には、洗濯物が干されているのも、今回の細見で確認することができた。
 
 問題は、この下宿かアパートの下見板と思われる外壁に取り付けられた、大きな文字看板だ。画集や図録などでは、どのような文字が描かれているのか皆目わからなかったけれど、佐伯の筆運びの跡を目の先10cmほどで確めてみて、ようやく判読することができた。看板の上段には、右から左へ向け「中原工○」と描かれている。「中原工業」か「中原工場」、あるいは「中原工務店」だろうか? また、その文字の下には、やはり右から左にかけて「乳○○」という文字が描きこまれていた。北辰牧場(高田町)や安達牧場Click!(長崎町)など近くに多い牧場の、牛乳加工か乳製品の製造を行なっていた工場名の可能性も出てきた。
 さっそく、「高田町住宅明細図」や「巣鴨西事情明細図」(池袋界隈)をしらみつぶしに当たったけれど、「中原工○」という会社または商店は、いまだ見つけられていない。「中原」姓の商店やお宅は、高田町だけでもあちこちで発見できる。いちばん目につきやすいのが、目白駅を出て西へ少し歩いたところの目白通り沿いにあった「中原白米店」、個人宅では描かれた武蔵野鉄道のガードをくぐったまさに右側の家並みに「中原順平」邸が、また学習院の先の「電気の家」Click!近くに「中原」邸を見つけることができる。でも、「工」の字が付く「中原」姓の建物は、いまのところ高田町や池袋付近では見つけることができない。実際には工務店であっても、「明細図」には大工の棟梁など個人名でしか掲載していないケースも考えられる。ひょっとすると池袋の先か、あるいは高田馬場側にあるのか、さらには武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の先にあった会社なのだろうか?

 描かれたガードをくぐらず、武蔵野鉄道の線路に沿って道を左(北)へとたどると、ほどなく池袋や目白のパン屋やミルクホール、西洋料理屋、喫茶店などにパンを卸していた、東京パン株式会社Click!の大きな工場が、山手線と武蔵野鉄道線に挟まれて建っていた。目白・下落合界隈に住んでいた画家たちが、デッサンの消しゴムがわりに利用していたのも、同社製の食パンだった。

■写真上:左は、1926年(大正15)に描かれたとみられる佐伯祐三「踏切」。右は、まだ工事中だった昨年の同所。武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の高架土手も、全面リニューアルされている。
■写真中上:上は、1926年(大正15)6月に発行された「高田町住宅明細図」にみる踏み切りとガードあたり。下左は、武蔵野鉄道線ガードの拡大。今回の観察で、ガード向うに人がたくさん描かれているのがわかった。下右は、下宿かアパートの外壁に取り付けられた文字看板の拡大。
■写真中下:左は、赤旗を手にする踏み切り番。右は、山手線の通過時に白旗を持つ踏み切り番。
■写真下:1933年(昭和8)に出版された『高田町史』掲載の同踏み切り。