最近、わたしのサイトを見るとドキッとする・・・というメールをいただいた。下落合界隈のことを書いているから、そこらじゅうに「下落」という文字が躍っているので、株を持ってるその方は「もうヤダ~ッ!」と心臓に悪いらしい。そこで、きょうはお正月には早いけれど、少しおめでたいテーマで。
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 国会図書館まで調べて見つからなかった、下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』(1973~74年)のシナリオが、思わぬ近場で保存されていた。地元・新宿の早稲田大学の5号館、演劇博物館の資料室だ。おそらく、NTVの資料庫には残されているのだろうが、一般公開はしていない。演劇博物館の脚本は、同館が蒐集したものではなく、早大OBの森繁久彌Click!が2002年5月に寄贈したものだ。おそらく、このドラマの生シナリオがきちんとしたかたちで保存されているのは、いまや早大の演博だけだろう。開架ではなく、申請すると閉架から出してきてくれた。
 まず、当時のドラマ脚本が、わら半紙への謄写版(ガリ版)印刷だったのに改めて驚く。そう、1970年代前半はワープロなんてあるはずもなく、読み合わせを重ねて何度か修正を繰り返す脚本のようなドキュメントは、ガリ版刷りがもっとも効率的だったのだろう。脚本は、1974年(昭和49)1月5日(土)に放送された、『さよなら・今日は』Click!の第14回「正月の結婚式」の決定稿だ。この回は、レギュラー陣の大原麗子、林隆三、原田芳雄たちは“正月休み”で出演しておらず、下落合の「吉良家」の家族だけという設定になっている。そして、作者はわたしの想定違いで向田邦子ではなく、『えり子とともに』や『吾は海の子』などシブい作品を残している岡本克巳だった。
 
 
 脚本のページをたどっていくと、随所に森繁の書きこみが見える。俳優同士の読み合わせの際などに、台詞がどんどん変更されていく様子がわかる。いや、そればかりかシナリオライターによる登場人物の性格づけを超えて、森繁が自身の役である「高橋作造」を異なる性格に創りあげてしまっているのが面白い。当初のシナリオでは、「作造」は短気で怒りっぽいスケベな鳶(トビ)の親父として描かれているのだけれど、スケベは変わらないものの(笑)、森繁によって非常に情けなくて涙もろい、まるで『夫婦善哉(めおとぜんざい)』の「柳吉」のような性格に改変されてしまった。森繁の筆跡で台詞がかなり消され、その上に自身で考えたと思われる新しい大阪弁の台詞が書き込まれているので、おそらく森繁自身の提案なのだろう。さらに、なによりも驚くのは、実際のドラマの中で話されている台詞と、脚本の台詞とがかなりの部分で一致しない・・・ということだ。
 浅丘ルリ子や中野良子、緒形拳、山口崇、小鹿ミキらは比較的正確に台詞をトレースしているのに対し、山村聰や森繁久彌、山田五十鈴の3人は、もうアドリブのやりたい放題という感じなのだ。特に、森繁と山田五十鈴の息はピタリと合っており、縦横無尽にアドリブが繰り広げられ、端で聞いている緒形拳Click!らが噴き出している様子までが収録されている。山村聰と森繁のかけ合いシーンも、放送された台詞の半分ほどが、脚本のどこを探しても存在しない。旧海軍の艦艇について語られるシーンを、いつかここの記事でもご紹介したことがあったけれど、脚本にはそんなシーンや台詞はどこにもなく、真珠湾攻撃の際に乗艦していたとされる森繁の「戦艦陸奥」と山村の航空母艦の海軍談義Click!は、両者による爆笑もんの即興掛け合いだったのがわかる。
 
 また、この放送回のみが生放送かそれに近い放送だったらしい様子も、脚本の森繁メモを見るとよくわかる。アドリブで長引いたぶん、後半の放送時間が削られていったせいか、重要でないシーンはどんどんカットされていった経過が、森繁の赤い×印の書き込みでうかがい知れる。実際の放送録音を仔細に聞くと、台詞のきっかけを間違えたり(緒形拳/山村聰)、別のシーンの音声や台詞が次のシーンにまで入り込んでいる箇所さえあったりする。スタッフや出演者は、気が気ではない緊張の50分間だった様子が伝わってくるのだ。きっと、NTVの創立20周年記念ドラマということで、ディレクターかプロデューサーが昔日の「生ドラマをやってみよう!」と企画したのだろうか。録画技術のない開設当初のTV局では、すべてがぶっつけ本番の「生ドラマ」だったはずで、それを当時のように再現してみよう・・・という意図だったのかもしれない。本編の録音が、他の回の録音に比べて長いのもそれをうかがわせる。押せ押せだった時間は、10時前のニュースなどで調整したのではないか。
 1974年3月9日(土)に放送された、『さよなら・今日は』の第23回「子供は誰のもの」Click!の最後で、浅丘ルリ子が下落合の「吉良邸」所在地をフルで言うシーンがある。その台詞は、「名前、吉良夏子。本籍、東京都新宿区下落合2丁目801番地。住所、同じ」・・・。もちろん、1974年(昭和49)にこのような住所は存在していない。でも、そのわずか10年ほど前、本来の下落合3丁目と下落合4丁目が「中落合」と「中井2丁目」という妙な名称に変わるまで、下落合2丁目801番地は実在していた。それは、ドラマで「吉良邸」が建っていたはずの相馬坂の上ではなく、現在の下落合4丁目の久七坂を上った、薬王院墓地に接するあたりの地番だ。
 
 ちょうど、薬王院の森をつぶして北側に造成された新墓地Click!の西側の区画(800番地界隈)は、鈴木良三Click!や鶴田吾郎Click!、服部不二彦Click!らの自宅が大正時代に建っていた。少し歩けば、曾宮一念Click!や牧野虎雄Click!、一時期の村山知義Click!の家もあった。彫刻家の祖父が建てたという設定だった、アトリエ付きの大きな“桜の館”=「吉良邸」は、それを知ってか知らずか、洋画家たちが住んだアトリエの密集地帯に存在していたことになる。
 でも、吉良家の居間では落合第四小学校のチャイムが大きく聞こえ、相馬坂を下って勤め先や買い物に出かけるし、ベランダから旧・富士女子短期大学(現・東京富士大学)の時計塔が見おろせる位置にあるので、やはり住所のイメージは旧・相馬邸Click!の西側あたりなのだろう。

■写真上:早大の演劇博物館へ森繁久彌から2002年に寄贈された、『さよなら・今日は』第14回「正月の結婚式」の脚本(決定稿)。配布時に書かれた、「森繁久彌様」の文字が表紙に見える。
■写真中上:森繁の書きこみが随所に残る、岡本克巳によるガリ版刷り脚本。森繁が作った台詞メモには、「あんなもん、ミニスカートのなあ、ノーブラのボインで」とか、正月なので山田五十鈴と実際に酒を飲んでるのだろう「一杯ぐらいで死ぬこたあらへん」とか、大阪弁のオリジナル台詞が随所に見えている。結婚式で唄われるジャリンコの歌「雨降りお月さん」も、もちろん森繁の即興だ。右下は、1928年(昭和3)にシェークスピア野外劇場を模して建設された演劇博物館。
■写真中下:左は、旧・下落合2丁目801番地の現状。右は、1947年(昭和22)の同区画。
■写真下:左は、旧・下落合2丁目801番地(現・下落合4丁目)から下る久七坂。右は、現・下落合2丁目(旧・下落合1丁目)の御留山Click!に接して下る相馬坂。
★第14回「正月の結婚式」の“予告編”は1974年元旦、病院から一時退院した愛子(栗田ひろみ)の書初め場面につづき、獅子舞いに扮した高橋作造(森繁久彌)が、下落合の坂を上って高橋菊代(山田五十鈴)や子供たちのいる吉良邸へとやってくるシーンから始まります。
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Part4.mp3 (Part4)
Part5.mp3 (Part5)
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Part9.mp3 (Part9)
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