昨日(11月25日)で、ブログをスタートしてから早くも丸4年の歳月が流れた。正直、アッという間の時間だったように思える。このところ、お読みいただいている方は1日あたり平均2,000名前後、のべ人数では150万人を超えた。いつも新宿の落合地区をはじめ、江戸東京地方の物語に興味をおぼえてアクセスしてくださる方へ、改めて心よりお礼を申し上げたい。

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 前回につづいて、下落合界隈にゆかりの人たちのめずらしい写真をご紹介していきたい。まず、トップは吉屋信子Click!の見なれない写真から。1927年(昭和2)発行の『主婦之友』4月号に掲載された、微笑まず真顔な吉屋の写真だ。背景に写っているのは、もちろん旧・下落合2108番地にあった吉屋邸Click!の書斎で、これほど鮮明に室内がとらえられた写真はめずらしい。
 北に面した窓に向かって配置されたデスクや机上の電気スタンド、背もたれの高いイスのデザイン、左手の本棚の様子などを観察すると、以前の記事で④としたイラストが、想像どおり吉屋の書斎だったことがわかる。東側のサンポーチを描いた③のイラストで、正面奧に見えている書斎は、やはり門馬千代の書斎だった。同誌のキャプションから引用してみよう。
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 『空の彼方へ』の筆者吉屋信子女史/我国女流作家中の第一人者たる吉屋信子女史は、『主婦之友』の四月号から、新小説『空の彼方へ』を御執筆くださることになりました。この小説は、それぞれ性格を異にした三人姉妹の、人生と恋愛に対する悲痛な争闘を描いたもので、女史が作家として立たれて以来、初めて世に問はれた畢生の大作であります。『主婦之友』が前号の編集日誌で、この小説の予告をしておりましたところ、愛読者から熱烈なお便りを沢山に頂くことができました。発表前から大評判のこの小説を、どうぞ引き続き御愛読くださいますやうお願ひいたします。写真は、書斎で『空の彼方へ』を執筆中の女史であります。
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 もう1枚、下落合の家(おそらく東側のサンポーチだろう)の窓を開けてニッコリ笑う、吉屋信子の写真がある。こちらも、ほぼ同時期の『主婦之友』に掲載された写真だ。
 次は、なんだか少女マンガの世界から抜け出してきた、あるいはSL(セカンドライフ)の女性アバターのようなコスチュームの女の子で、日本女子大在学中に『白樺』へ小説を書いていたペンネーム・中條百合子こと中條ユリ。当時から天才少女と呼ばれ、1918年(大正7)に渡米をする直前の姿をとらえたものだ。1918年(大正7)発行の『婦人画報』11月号に掲載された写真で、キャプションには、「厳父工学士中條精一郎氏に随行して九月二十八日渡米せる新進閨秀作家中條百合子嬢(十九)」とある。この当時、『婦人画報』はさまざまな分野の第一線で活躍する女性たちを写真入りで紹介しており、中條百合子も新進作家として取り上げられたのだろう。彼女が1930年(昭和5)に日本プロレタリア作家同盟へ参加し、翌年には日本共産党へ入党するのはまだまだ先の話だ。
 中條百合子が宮本顕治と結婚し、最勝寺に面した北隣りの区画の旧・上落合2丁目740番地へと引っ越してくるのは、1934年(昭和9)11月のこと。ペンネームを中條百合子から宮本百合子Click!に改めたのは、1937年(昭和12)になってからのことだ。
 
 つづいては、落合地区の住人ではないけれど、会津八一Click!が気になって気になってしかたがない洋画家・渡辺ふみClick!のめずらしい写真。再婚先の神戸に新築した、アトリエ前で撮影された家族の肖像だ。大きい子供がいるのは、再婚先の亀高家にいた先妻の子供たち。1927年(昭和2)に発行された、『主婦之友』11月号のキャプションから引用してみよう。
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 亀高文子女史は、震災後神戸市葺合に立派なアトリエを新設されました。御主人は長らく郵船外国航路の船長をしてをられた方です。右より長男一郎さん(十六)、長女美代子さん(十八)、二男洋介さん(九つ)、文子女史、前は御主人の吾市氏と三男泰吉さん(二つ)です。
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 書かれている「震災後」とは、もちろん1923年(大正12)の関東大震災Click!のことで、渡辺ふみは自宅やアトリエを含め震災で焼け野原になった東京を離れ、再婚して神戸へ移住した。先の阪神淡路大震災では、亀高家の子孫の方々はみなご無事だっただろうか? うちの家族や親戚も、何人かが安政大地震Click!で、少なくとも判明しているだけでふたりが関東大震災で命を落としているが、次の関東大震災を経済的な(金もうけの)「チャンス」だと公言する、人の気持ちも心の痛みもわからない「ホンマもんのアホ」(大阪の知人言)な知事のいる神戸地域のこと、まったく同情を禁じえない。
 それとも、関東大震災は教科書でお勉強した暗記対象の昔話であって、遺族やその子孫はもはや東京には存在しない・・・とでも思っているのだろうか? かつて、わたしがこのブログで“噛みついた”もうひとりの人物に、佐伯祐三の「下落合風景」に関して目白・下落合地域のことを裏取りもしていないピント外れな言質と、読むに耐えない下品な言語で悪しざまに表現したClick!がいたが、その人物も同じく兵庫県知事だったことを考え合わせると、偶然にしてはたいへん興味深い符合だ。
 
 さて、最後の写真は雑誌掲載のものではなく、ご家族からお寄せいただいた超貴重な写真だ。おそらく、鎌倉時代から下落合にお住まいだったと思われる、最古参の宇田川様Click!からお送りいただいた目白文化村Click!の第一文化村南側に接した樹林の一画。戦後の写真だけれど、写っている下見板外壁の西洋館は文化村の造成時から建っていたものだ。外壁はこげ茶で窓枠は白、屋根は濃いオレンジ色をしていたと思われる。上掲の吉屋信子邸も、まったく同じ仕様で建設されていた。このすぐ右手が、第一文化村の水道タンクClick!が建っていた場所で、画面を左方向へ進むと第二文化村の大きなMI邸Click!の前へと抜けることができた。
 現在、この写真の撮影ポイントには立つことができない。ちょうど、十三間通り(新目白通り)と山手通りとが交わる中落合2丁目交叉点から、十三間通りをやや西側へ入ったあたりの道路上、旧・下落合3丁目1360番地界隈の情景だ。佐伯祐三Click!も、大正末のこのあたりの情景を「下落合風景」Click!の1作Click!として描いている。宇田川様は、この道路造成のために多くの敷地がひっかかり、のちに旧・下落合2丁目(現・下落合4丁目)へと転居されている。

■写真上:下落合の書斎の様子がよくわかる、吉屋信子の貴重なポートレート。
■写真中上:左は、下落合邸のサンポーチの窓から顔を出す吉屋信子。右は、渡米直前の中條百合子(宮本百合子)で、いかにもお嬢様風の装いをしているのがめずらしい。
■写真中下:神戸に新築したアトリエ前の、亀高文子とその家族。
■写真下:第一文化村に接した旧・下落合1360番地界隈で、1955年(昭和30)ごろ撮影された家族写真。十三間通り(新目白通り)が貫通するまで、いかに緑の多いエリアだったかがわかる。