高良とみClick!が特異な存在なのは、日本で行なわれていた青鞜社のような欧米型の婦人解放運動とは、ほとんど無縁だったことだ。むしろ、平塚らいてうに対しては批判的ですらある。高良とみは米国へ長期間留学し、博士号まで取得しているにもかかわらず、思想・哲学的な基盤を欧米に求めることはついぞなかった。彼女の眼は、常に地元のアジアを向いており、アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したタゴールClick!の思想に、日本女子大在学中から強い影響を受けていた。
 だからというべきか、その「アジア主義」的な側面は第2次近衛内閣Click!が組織した、左右両派を巻きこんだ「大政翼賛会」で、はからずも足元をすくわれることになる。『非戦(アヒンサー)を生きる』(ドメス出版/1983年)をまとめた、柘植恭子の「解説」から引用してみよう。
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 (引用者註:高良とみが大政翼賛会で唱えた)これらの内容が昭和初期に女史がアメリカから帰国後に説いた、婦人の覚醒について述べた内容と、ほぼ変わっていないことである。科学的知性をもち、封建的女性観から訣別して、しかも豪奢を嫌い、質素に徹し、社会に尽くす婦人、これが一貫して女史が理想とした婦人像であった。むしろ女史が唱えていた婦人の道に、国家が“御国のため”という公的価値を与えた形になった。女史が説いた婦人の社会意識の必要性が、そっくりそのまま国家意識に変わっただけである。
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 高良とみは、自身の大きな幻想と誤りに、日本が「連戦連勝」していた1942年(昭和17)の段階で早くも気づいている。大政翼賛会を離脱し、日本女子大の教授も辞任して自ら逼塞することになった。翌1943年(昭和18)には憲兵隊に目をつけられ、良心的兵役拒否の「石賀事件」では憲兵隊本部へ連日呼ばれて尋問を受けている。さらに、空襲が激しくなると、疎開した先の家を憲兵隊に没収されるなど、敗戦までさまざまな嫌がらせを受けることになった。
 
 そのリバウンドからか、敗戦後の八面六臂の活躍はめざましい。1947年(昭和22)に参議院議員に当選した彼女は、政府の全面講和ではなく片面講和に反対して、いまだ交戦状態や国交断絶状態になっている共産圏の国々との関係改善に全力を注ぎ、“鉄のカーテン”(旧・ソ連)や“竹のカーテン”(中国)へ風穴を開けることに成功している。1952年(昭和27)3月、ソ連はモスクワで経済会議を企画しており、東洋経済新報社の石橋湛山Click!などへ招待状がとどいていた。参議院では緑風会に属していた高良とみは、会派仲間の帆足計から、国民共同党の宮腰喜助も含めた3人でモスクワ会議へ参加しようと誘われた。しかし、日本政府は国交のない国への旅券を発給せず、会議への参加は絶望的になった。(いわゆる憲法判例の帆足計事件)
 ところが、高良とみだけはいち早く日本を“脱出”していた。パリで開かれたユネスコ会議へ出席するため、ふたりの議員よりも早く海外へ出ていたのだ。パリからモスクワへと向かった彼女は、日本の国会議員として初めてソ連を訪問することになった。特に、シベリアに抑留されている日本人捕虜の収容所や付属病院では、帰国への希望を与えてまわった。(のちに訪問先の収容所は、ソ連が彼女の訪問に合わせてにわかに用意した“玄関施設”だったことが判明する)
 
 抑留生活を送っていた人々には、彼女の訪問はどのように映っていただろうか。日本の国会議員が来ると聞いた収容所のひとりの青年が、「まさか女の人が来るとは思いませんでした」(同書)とあるように、少なからず驚きをもって迎えられたようだ。また、高良とみが“玄関訪問”した環境良好な収容所ではなく、冬の寒さも満足に防げない厳しい環境下の収容所では、どのような思いで彼女の訪問を聞いていただろうか。共産党の機関紙「プラウダ」などの購読は収容所でも許可されていたので、多くの抑留者が彼女の訪問を知っていたと思われる。シベリア抑留の近衛文隆Click!を描いた、1999年出版の西木正明『夢顔さんによろしく』(文藝春秋)から引用してみよう。
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 四月二十九日に、戦後はじめてソ連を訪問した国会議員となった高良トミ、帆足計、宮腰喜助らの動静について、五月六日付けのプラウダが報じていた。/彼らとソ連当局との間で、もしかして自分たちの帰国問題が話し合われたかも知れない・・・・・・。/そういう期待が高まり、以後何日かは紙面のすみずみまで舐めるようにして読んだ。しかし、以後の訪ソ国会議員団について報ぜられたのは、その一回だけであった。
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 だが、変化は目に見えてやってきた。6ヵ月後の1952年(昭和27)10月になると突然、シベリア抑留者と日本の家族との間で、手紙のやり取りが許可されることになる。同書から引用してみよう。
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 そのこと(引用者註:日ソ間における郵便交換の実現)の意味を理解するまでに、いくばくかの時間が必要だったのだ。次の瞬間、どっと歓声が上がり、続いて拍手がわき起こった。/終戦以来実に七年間、日本内地との連絡を禁じられてきた。各自の留守宅では、ここにいる者たちの生死すら知るすべのないまま、今日まで過してきたはずだ。/中にはもう死んだものと諦めている留守宅もあるだろう。/なのに突然、内地への通信が許されることになった。
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 高良とみはシベリア訪問後、ようやく渡航できた帆足計や宮腰喜助とハバロフスクで合流し、つづいてゴビ砂漠やウラル山脈を超えて、誰も足を踏み入れたことのない中華人民共和国へと向かった。1952年(昭和27)6月17日、3人は日中第一次民間貿易協定の調印に成功している。

■写真上:1940年(昭和15)まで高良とみが住んでいた、下落合679(680)番地の東側にある目白文化村Click!の第三文化村へと向かう谷間。旧・高良邸は、左手(西側)の崖線上に建っていた。
■写真中上:左は、1983年(昭和58)に出版された『非戦を生きる』。右は、晩年の高良とみ。
■写真中下:左は、参議院の緑風会で活動していたころの高良とみ。右は、1952年(昭和27)の訪ソ時にトルストイの墓へ詣でる高良とみ。左側の人物は、同行した国民共同党の宮腰喜助。
■写真下:左は、同年6月に日中第一次民間貿易協定へ署名する高良とみ(左)と南漢宸。彼女の背後は、左が帆足計で右が宮腰喜助。右は、アジア諸国会議議長団に参加した高良とみ(右端)。左端には、今日の中国ではほとんどいなくなってしまった親日・知日派の郭沫若が見える。