佐伯祐三Click!の50点弱ほどが確認できる「下落合風景」シリーズClick!の中で、これだけ街並みが鮮明で地形や道路に特徴のある作品にもかかわらず、8ヵ月以上にわたり探しつづけて描画ポイントが不明なのは初めてのケースだ。右手に、箱根土地が拓いた二間道路または三間道路と思われる道筋が通い、地形的に少しずつ下がった左手の、電柱Click!が1本も存在しない住宅街は、どう見ても1922年(大正11)から開発がスタートした目白文化村Click!の風情だ。でも、こんな見え方のする住宅の配置、あるいは道筋や地形を想定できる街角は、少なくとも1936年(昭和11)に撮影された第一文化村から第四文化村までの空中写真には、残念ながら存在していない。
 光線の具合から判断すると、画面左手が西側ないしは南側で、下り気味の地形を考慮すると、画面の背後あるいは左手に目白崖線の急斜面がありそうな感触だ。中央やや左寄りに見えている大きな西洋館Click!も、これだけ特徴のある建築であるにもかかわらず、どこの建物なのか不明だ。文化村に建っていた多くの建物のかたちは、いまやかなりの割合でおよそ見当がついている。特に第一文化村の東側と、第二文化村の南側は建物の写真が多く残っているので、個々の邸宅やその遠景に見えている周辺の建築も含め、だいたいの様子はつかめているつもりだ。でも、ここに描かれたような形状の大きな西洋館は見あたらない。

 もうひとつ、シャレた西洋館が建ち並んでいた下落合界隈にはやっかいな課題がある。これは目白文化村に限らず、旧・下落合全域についても言えることなのだけれど、大正期後半に建てられた邸宅が、そのまま1935年(昭和10)前後まで建っていた・・・とは決して限らないことだ。中には、わずか築10年足らずで解体され、まったく新しい建物に変わってしまったケースも多く見られる。一度住宅を建てたら、30年50年と同じ建物に住みつづけるのはあたりまえ・・・という考え方は今日的なものであり、当時の住まいに対する考え方とは少なからずズレがある。さらに、シャレた邸宅群が短期間で建て替えられてしまったのには、時代的にシビアな背景もあった。
 1929年(昭和4)ごろに始まった、世界的な金融恐慌に端を発する昭和大恐慌の深刻な影響だ。近衛町のケーススタディClick!では、新築の邸宅がわずか10年足らずで壊されて、次の邸宅が建設されている。だから、これだけ特徴的な西洋館が並んでいても、すぐに建て替えられてしまっているとすれば、地元住民の記憶には残らない。

 これまで、旧・下落合全域に古くからお住まいのみなさん10人以上に、この作品を観ていただいたのだけれど、どこの風景なのかいまだにわからないままだ。念のため、目白文化村のエリア以外の方々にも確認しているのだが、どこの光景だかわからない。目白駅寄りの現・下落合地番にも、また文化村の西に展開したアビラ村Click!の旧・下落合(現・中井2丁目)にも、該当する道筋や建物は、いまのところ見つけられないでいる。ということは、1926年(大正15)の秋に描かれたこの風景が、昭和に入ってしばらくすると消滅していた可能性が高いように思われるのだ。(可能性のある描画ポイントがたった1ヶ所、第一文化村に存在しているが、まだ確証が得られないでいる)
 中央右よりに見える鳥居のようなフォルムを、第一文化村の三間道路沿いにある弁財天Click!と解釈しても、光線の射し方や地形、邸宅の並びがまるで一致しない。右手の道路を、第二文化村外れに通う三間道路を南から・・・と想定しても、光の具合や地形は合致するものの、住宅敷地や邸宅の並びが一致しない。第二文化村の水道タンク前の三間道路や、箱根土地の本社ビルClick!が建つ第一文化村入口あたりの三間道路、あるいは第三文化村の各三間道路など、さまざまな角度から目白文化村の「分譲地地割図」(大正末)、各種空中写真(1936~1947年)、「火保図」(1938年)、さらに後世に作成された建物分布図(1980年代)などを参照しても、このような地形や光線方向、道筋、街並みの建物配置は、残念ながら見あたらない。
 
 大正時代の後半に建築され、昭和の初期、特に昭和大恐慌の前後に取り壊されていることを想定すると、この街並みを実際に目にした人たちは非常に限られてくる。記憶に残っているのは、おそらく90歳に近いお年寄りから上の世代の方々になるだろう。1945年(昭和20)4月13日夜半の、文化村空襲Click!まで建っていたとしたら、もっと多くの人たちが目撃し、その記憶に残っているはずなのだ。どなたか、この風景に見憶えのある方、あるいはこの建物と思われる写真をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか?

■写真上:左は、1926年(大正15)の秋に制作されたとみられる佐伯祐三「下落合風景」シリーズの1作。右は、第一文化村を東西に通う代表的な三間道路の1筋。
■写真中上:1925年(大正14)ごろに箱根土地が作成した、第一・第二文化村の「分譲地地割図」(南北が上下逆)。この図に描かれた建物も、昭和初期に少なからず建て替えられている。
■写真中下:目白文化村の住民の記憶と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をベースに、住宅総合研究財団が80年代に調査・制作した「住宅分布図」(1989年)。箱根土地が作成した先の「分譲地地割図」と、14年後の「火保図」に描かれた住宅のフォルムとが少なからず一致しない。わずか10年余の間に、多くの家々の建築位置や形状が変わっているのがわかる。
■写真下:左は1936年(昭和11)に撮影された第一・第二・第四文化村、右は同時に撮影された第三文化村の空中写真。佐伯の描いた風景は、このどこかにあると思われるのだが・・・。