先よりご紹介している、「下落合摺鉢山古墳」(仮)Click!が存在した可能性が高い聖母坂の下に見えるフォルムだが、その前方後円墳の前方部に当たる北側の急斜面から、ナラ期(8世紀)に造成されたとみられる「下落合横穴古墳群」Click!が発見されている。このサイトでも、出土した副葬品のひとつである直刀Click!の素性などとからめて、何度か取り上げてきた課題だ。わたしの手元にある、目白崖線から出土した研磨済みの直刀Click!とも、また古墳時代からナラ時代あたりまで存在していたとみられる南武蔵のクニグニの存在とも、おそらく深い関わりがあるテーマだろう。
 1966年(昭和41)7月より「横穴古墳」を発掘・調査したのは、早稲田大学の発掘チームと慈恵医大の調査チームなど。そして、調査活動全体を統括し、のちに『新宿区立図書館資料室紀要1/落合の横穴古墳』(新宿区立図書館・刊/1967年)として調査報告資料をまとめたのは、当時は区内にある各図書館内の“資料室”に勤務していた、新宿区教育委員会のメンバーたちだった。
 余談だが、1980年代に中村彝アトリエClick!の保存をめぐって区教育委員会のメンバーがおふたり、彝アトリエを訪問している。ちょうど、林芙美子の自宅Click!の保存案件と彝アトリエClick!の保存案件とがバッティングしてしまったころの出来事だ。このとき保存が実現していたらと思うと残念だが、彼女たちの名刺を見ると、「新宿区教育委員会/文化財郷土資料担当」というショルダーが付いているが、勤務先は新宿区立中央図書館となっているのがめずらしい。ふたりの調査員のうち、ひとりは結婚をされて姓が変わってしまったのか追跡できないが、もうひとりの方は神奈川県でやはり地域自治体の文化財調査担当をされており、研究論文もいくつか発表されているようだ。
 
 下落合の横穴古墳群の調査でも、現地にもっとも近い区立中央図書館の資料室に勤務していたメンバーが、各大学のチームとも連携して調査に当たっているようだ。遺跡調査は、古墳の発掘や出土物の研究・検証にとどまらず、近隣住民への聞き取り調査も実施されているだろう。これは、遺跡の範囲特定や過去の出土物などを確認するうえでも欠かせない、この種の調査では当然の取材といえる。特に遺跡北側に位置しているA邸からは、やはり同様の横穴古墳と副葬品類が見つかっているので、周辺取材はより念入りに行なわれているとみられる。その取材対象には、工事現場の作業員はもちろん、横穴と人骨が発見された直後、その様子を仔細に観察していた竹田助雄Click!への聞き取り調査も含まれている。
 それらの調査・取材によって作図されたとみられる、遺跡周辺の地形図と地形断面図とが遺跡報告書の『紀要』には掲載されているのだが、それを見るとたいへん面白いことがわかる。聖母坂西側の谷間の名称が、「不動谷」として採取されているのだ。つまり、この作図から、1960年代の半ばまで遺跡の周辺住民のみなさんが谷間を表現するときの呼称、ないしは新宿区教育委員会が同谷を記載するときの名称が、やはり「不動谷」だったことを示す直接的な証拠資料・・・ということになる。それが、単純に図面への記載場所を間違えたミスでないことは、「2.下落合の地形と地質」の本文中に、谷間の位置を明確に規定する文章があることからも明らかだ。



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 この地域は、豊島台といわれる台地の一部で、神田川の左岸の台地と神田川の河谷の低地にわたっている。台地は、標高30~35mで、崖端侵蝕によって台地にいくつかの谷がきざまれている。藤稲荷のある谷(おとめ山公園)、薬王院のある谷、不動谷(下落合駅から北西の方の谷)などがある。これらの谷の谷頭には湧水池があったが、今では、おとめ山公園の湧水池だけとなっている。
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 つまり、下落合駅前の谷のうち、北西側の谷間が「不動谷」であると規定して、上記の地形図および地形断面図を起こしているということだ。(駅から北東側の「諏訪谷」Click!への言及はない) 換言すれば、明治期に行なわれた住所としての小字(こあざ)「不動谷」のエリア設定により、その位置が曖昧化して揺らぎ大正前期ごろから西へ「移動」してしまったか、あるいは堤康次郎が政治力にモノを言わせ、大正前期に無理やり「不動園」事業を推進する地域へ「修正移動」Click!させてしまったか・・・、その経緯は相変わらず不明な「不動谷」の「移動」だが、1967年(昭和42)の『新宿区立図書館資料室紀要1』作成時にいたるまで、同谷を「不動谷」と認識していた下落合住民(おもに旧・下落合東部)のみなさん、あるいは新宿区教育委員会のメンバーたちが確実に存在していた・・・ということになる。わたしが、下落合でかつて取材していた、「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」と疑問に思われている方々の認識とも、ピタリと一致するのだ。
 再び余談だけれど、この『紀要』の著者は、おそらく江戸東京出身の方ではないだろうか? 藤稲荷(同神社)や角筈十二社(熊野神社)、弁天社(厳島神社)へ明治政府の妙チクリンな「神社」Click!という名称を用いず、地域代々の正確な呼称を記載していることからもそれはうかがえる。
 
 『新宿文化地図/落合編』(新宿区地域文化部文化国際課・刊/2007年)には、落一小学校前の谷間の名称は、東側の小字(こあざ)である「不動谷」にちなんでいるように記載されているけれど、コトはそれほど単純ではないと思う。東側に「不動谷」が存在したからこそ、現在の下落合駅前から西坂あたりにはじまり、落合小学校(現・落一小学校)あたりまでの小字が「不動谷」と付けられたのであって、その逆ではない。谷名「不動谷」の呼称が先で、もちろん小字「不動谷」の命名はあとの時代だ。わたしには、昔からの住民のみなさんの声も含め、あらゆる資料的な状況から見て、どうしても聖母坂の西側に切れ込んだ谷戸こそが、本来の「不動谷」だと思えてしかたがない。
 聖母坂の西側谷戸「不動谷」から、佐伯アトリエや清戸道(目白通り)を突っ切り直線状に北上すると、ほどなく長崎氷川明神(長崎神社)の南に建立されていた、不動堂Click!(現存)へとぶつかることになる。「不動谷」の方角は、わたしが1926年(大正15)ごろに佐伯祐三Click!が描いた「堂(絵馬堂)」ではないかと疑った、まさに長崎の不動堂へと向いているのだ。当初、谷間に「不動谷」と命名されたであろう往年には、もちろん豊島郡/豊多摩郡の境界や豊島区/淀橋区(新宿区)などの行政区分は存在していない。

■写真上:左は、横穴古墳群の発見直後の様子で、作業員たちが「殺人事件」と勘違いして茫然としている様子がうかがえる。右は、閑静な住宅地として開発された現在の同所。
■写真中上:左は、中村彝アトリエの保存をめぐり80年代に来訪した調査員2名の名刺。いずれも、中央図書館が勤務先となっている。右は、『新宿区立図書館資料室紀要1/落合の横穴古墳』。
■写真中下:上は、調査がスタートした直後の様子で、調査員と思われる人物が2名写っている。上掲の『紀要1』に掲載された、遺跡付近地形図(中)と地形断面図(下)にみる「不動谷」。
■写真下:左は、聖母坂の東側に切れ込む「諏訪谷」、右は、西側に切れ込む「不動谷」。