森鷗外が娘に授けた名前がお気に入りで、店名に「あんぬ」と付けた「カフェ杏奴」Click!のママさん。きょうは、いつもの「カフェ杏奴」ではなく、森鴎外の娘に生まれた森杏奴=小堀杏奴のほうのお話だ。佐伯祐三Click!が渡仏していた時期に、親しく交友したヴァイオリニスト・林龍作を、小堀杏奴は兄のように慕っている。林の親友だった洋画家・小堀四郎が、杏奴の夫になったという関係だ。林龍作が、やはりパリで佐伯家と親しかった東京音楽学校(現・東京芸大)を出て間もない川瀬もと子と結婚すると、杏奴は彼女とも気が合って生涯の友となる。つまり、パリで佐伯が死去するまでもっとも身近にいた、林夫妻(特に川瀬もと子)からあれこれエピソードを聞きつづけてきた。
 1980年(昭和55)に出版された、小堀杏奴の『追憶から追憶へ』(求龍堂)から引用してみよう。小堀杏奴は、お気に入りで尊敬する林龍作のことを「龍兄」と呼んでいる。
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 龍兄夫妻が、当時クラマアル郊外に住む佐伯祐三に会ふ為、里見勝蔵氏の案内で汽車に乗り、其の地を訪れたのは大正十三年? 頃のことと思ふ。龍兄が、その頃珍しいセルフタイマアの機械を取付けるやうになつてゐる上等の写真機を買ひ持参した。この時の写真を一昨年? だつたと思ふがもと子さんが誰かに貰つて焼き増しし、家へも届けて下さつた。(中略)若き日のもと子さんが、佐伯氏の一人娘の彌智子ちやんを抱つこして立つてゐる。龍兄も、佐伯氏もゐるのだが、龍兄は平々凡々たる美男子にうつつてしまつてゐてつまらない。(同書より)
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 たまに、渡仏時の佐伯写真について撮影者のことが話題になるけれど、少なくとも林龍作や川瀬もと子が写った写真は、林のセルフタイマー付きカメラで撮られた公算が高いと思われる。

 
 小堀杏奴は、音楽家では“兄”の林龍作、小説家では太宰治Click!、そして画家では佐伯祐三が大好きだった。彼女はその著作で、この3人のことを頻繁に取り上げている。佐伯については、一度も実際には会ったことがないにもかかわらず、もと子からこと細かに人物像や多くのエピソードを聞かされていたのだろう。彼の性癖の隅々まで、知りつくしているような印象を受ける。もと子が、佐伯の娘・弥智子を死ぬまでかわいがったせいか、弥智子についての描写もきわめてリアルだ。
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 一歳半くらゐの小さい女の子が人なつこく、直ぐもと子さんに抱かれに来た。もと子さんが、/「お名前は?」/と言ふと佐伯が、/「メンタイです」/と言つた。/「えつ! メンタイ?」/と聞き返すと、傍から米子が、/「本当は彌智子と言ふのよ」/とおしへてくれた。/メンタイの意味は、メンとは雌の意味で、タイは男の子の名前の太郎を意味する。(中略)メンタイちやんは日本から送つて貰つたらしい赤い絹の和服を着てそこらをちよこちよこ歩き廻つてゐる。後で解つたことだが米子の妹さんが呉服屋さんに嫁いでゐて、其処から衣類など送られて来るらしかつた。(中略)米子の声は女らしいつくり声である。併し佐伯の親戚の人は、/「東京言葉はええなあ!」/と感に堪へぬやうに言つてゐた。(同上)
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 ところが、佐伯米子Click!については、おそらく本人に一度も会ったことがないと思われるにもかかわらず、杏奴はきわめて辛らつな言葉をあちこちで浴びせかけている。佐伯にはときに敬称を付け、弥智子は「ちゃん」付けで呼ぶのに、米子は一貫して呼びすてのままだ。当時の佐伯米子は、普段から「女らしいつくり声」、要するにブリッコのようなしゃべり方をしていたようだ。

 
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 それをきつかけにしたやうに佐伯の絵はどんどん変り、人々の魂をわしづかみにし、揺がすやうな、あの巴里風景が次ぎ次ぎと生まれた。肉屋、靴屋、雑貨店、珈琲店と。つられて米子迄似たやうな絵を描き出す。/「オンちやん、オンちやんの絵は素敵だよ!」/と佐伯は褒める。オンちやんとは米子の愛称である。もと子さんの見るところ一向よくない。さうであらう! と私も思ふ。さうして私はあの、世紀の大天才であるモオツアルトが、俗つぽい夫人を喜ばせる為に、御婦人向きのオペラか何かを作曲した? とか言ふいたましい話を思出す。(中略)
 丁度もと子さんのゐるところへ、見知らぬフランス人が訪れて来た。/「ムッシュウ・サエキの家か?」/と聞き、/「展覧会で見た佐伯の絵があまりいいので欲しくなつて来た」/と言つてゐる。佐伯はあひにく留守であつた。/「会場にあつたあの絵はどちらもサエキのか?」/「イリア・ドゥ・サエキ(どちらもサエキだ)」/と米子は平然と答へた。たいした度胸である。どうしてもう一つのは私のですと言はないのであらう。(同上)
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 ほとんど、米子のことを「俗物で身のほど知らず」の「わきまえない人」とでも言いたげな文章だ。女性が女性を観察する眼差しは、きわめて冷ややかで厳しい。もと子から聞いた米子像が、杏奴はよほど腹にすえかねたのだろうけれど、あくまでも当時の川瀬もと子のフィルターを通した佐伯米子像だったことに留意する必要があるだろう。でも・・・と思うのだが、米子の身近にいた人たちで、彼女のことを賞揚した言葉は残念ながらあまり見たことがない。弁明のできない死者については批判しない・・・と書く小堀杏奴だが、佐伯米子だけは例外のようだ。それとも、文章化はしていないけれど、よほどひどいことを林(川瀬)もと子から聞いているのだろうか?

 あえて詳しくは書かないけれど、地元の下落合でも事情はあまり変わらない。周囲があまり好きではない人物を、もともと天邪鬼でヘソの曲がりやすい育ちのわたしは、そして同じ旧・下落合の住民仲間としては、逆に擁護したくなるのだけれど、いまのところ積極的に擁護してあげたくなるような素材を、わたしはご近所でも残念ながらあまり見つけられないでいる。(汗)

■写真上:左は、1925年(大正14)1月ごろに撮影された川瀬もと子と佐伯祐三。中は、1931年(昭和6)に撮影された林龍作。右は、1980年(昭和55)刊の小堀杏奴『追憶から追憶へ』。
■写真中上:林龍作がセルフタイマー付きのカメラで撮影したと思われる、1924年(大正13)7月のクラマールにおける一連の記念写真。さまざまなバリエーションカットが残されている。
■写真中下:1925年(大正15)1月ごろに撮影されたとみられる、リュ・デュ・シャトーにあった佐伯アトリエでの記念写真。この中の1カットのみ林龍作が不在で、残りの2カットはカメラを手にして写っている。帰国後のちに1930年協会を起ち上げる、里見勝蔵や前田寛治らの姿が見える。
■写真下:1972年(昭和47)11月14日の朝日新聞に掲載された、佐伯米子の訃報。