以前、池袋モンパルナスや長崎アトリエ村Click!の記事を書いたとき、詩人・小説家であり、ときには絵も描いた小熊秀雄Click!の作品をご紹介したことがある。池袋モンパルナスを語るとき、小熊秀雄は欠かせない存在だ。ときに下落合を突っ切り、仲間たちが多く暮らしている上落合界隈にも出没し、周辺の風景をスケッチして歩いていた。1934年(昭和9)に小熊は中野重治、壺井繁治、窪川鶴次郎、松山文雄、門田秀雄らとともに「サンチョクラブ」を結成している。そんな貴重なスケッチを2作品、豊島区にお住まいの小熊秀雄ファンの方からいただいた。
 厳密にいえば、今回ご紹介する小熊秀雄のスケッチは下落合ではない。ひとつは、昭和初期の上落合風景であり、もうひとつも同時期の目白駅界隈(高田町)だ。まず、上掲の作品は1930年代に描かれた『青物市場(上落合)』。まるで、サーカスのテント小屋を髣髴とさせる建物だ。いや、実際にテントが張られ、その下に近隣で採れた落合野菜を売る市場が開かれていたのだろう。
 落合地域でもっとも古い市場は、佐伯祐三Click!が画角に入れている「草津温泉」Click!の南西50mほど、下落合1886番地にあった「下落合市場」で1926年(大正15)5月に創設されている。次にできたのが、1928年(昭和3)4月にオープンした上落合196番地の「上落合大市場」。『落合町誌』(1932年)によれば、つづいて1929年(昭和4)4月に上落合721番地へ「上落合中井市場」が、1930年(昭和5)10月に上落合428番地へ「親和市場」がオープン・・・という順番だ。さて、小熊秀雄が描く『青物市場(上落合)』は、3つの上落合にあった市場のどれだろうか?
 1935年に制作された「落合町市街図」には、西武電鉄の線路際にあった「下落合市場」とともに、上落合196番地にあった「上落合大市場」が(市)マークで掲載されている。落合地域では、このふたつの市場が代表的な存在だったのだろう。また、「大日本職業別明細図(商工地図)」(東京交通社/1935年)の「淀橋区」を参照すると、裏面に9つの市場が収録され、そのうち落合地域からはなぜか「上落合大市場」のみが紹介されている。宅地化の開発が急速に進行し農地が減少するとともに、「下落合市場」のウェイトが徐々に下がり、「上落合大市場」のほうが規模が大きくなっていたのかもしれない。ちなみに、同地図には「淀橋市場」の写真が掲載されているけれど、まるで学校の体育館のようなコンクリート建築だったことがわかる。
 
 

 換言すれば、小熊が描いたテント張りのマーケットは、上落合にあったかなり規模の小さな市場をとらえたものではないだろうか? 1936年(昭和11)の陸軍が撮影した空中写真で調べてみると、中井駅のすぐ南側、寺斉橋Click!をわたった右手の上落合721番地あたりに、ドーム状のなんらかの建物が見えるようだ。したがって、この風景は「上落合中井市場」をスケッチしたものではないか。目白変電所Click!へとつづく、高圧線の送電鉄塔Click!らしいものもテントの横に描かれている。
 さて、もうひとつの作品、『目白駅附近』(1930年代)の描画ポイントの特定はカンタンだ。左手に、橋上駅化された目白駅舎Click!と屋根のあるプラットホームが描かれ、手前の貨物引き込み線には貨物車両が1両ポツンと見えている。ここへ、少し前に記事にしたように山梨から大黒葡萄酒樽Click!が到着し、椿坂を下って甲斐産商店へと馬車で運搬されている。目白駅と学習院との間に拓かれた椿坂の途中から、目白通り方面を眺めたところだ。正面には、川村学園の校舎※の一部だろうか、近代的な3~4階建てのビルが見えている。以前にご紹介した、1930年協会の小島善太郎Click!が目白通りの椿坂上から山手線の線路を見下ろして描いた、『目白駅より高田馬場望む』Click!(1913年)の情景を、小熊秀雄が約20年後に、今度は下から見上げるように描いていたことになる。
※のちに、目白市場の建物である可能性が高いことが判明した。「市場」という名称はついていても、おらく食料品から衣類雑貨までを扱うデパートのような存在だったろう。
 
 目白貨物駅は、何本もの引き込み線や大小の建物が設置できるほど、線路沿いには広いスペースが確保されていた。このスペースは、品川赤羽鉄道(山手線)が池袋や大塚を通過せず、目白から巣鴨方面へと斜めに抜ける初期の計画時から確保されていた敷地だろう。スケッチにもあるように、貨物の引き込み線のほか、椿坂に沿った内側のスペースには昔から鉄道員の宿舎や作業小屋と思われる建物が多く建てられており、現在でも線路沿いにはホテルやマンション、オフィスビルなどが林立している。この線路沿いのスペースは椿坂の下までつづき、やがて佐伯祐三が描いた「ガード」Click!がある、雑司ヶ谷道(東京府呼称では新井薬師道)と交わる位置で消滅している。
 日本が太平洋戦争へ突入する直前、1940年(昭和15)に39歳で死去する小熊秀雄だが、晩年の小熊秀雄について宮本百合子Click!は1941年(昭和16)、こう書いている。
  ●
 最後に会ったのは、壺井栄さんの『暦』の出版のおよろこびの集りの時であった。短い間であったが心持よく世間話をした。そのときの小熊さんは、特徴ある髪も顔立ちも昔のままながら、相手と自分との間の空気から自分の動きを感じとろうとしてゆくような傾きがなくて、自分の見たこと、感じたこと、したことを、簡明にそれとして話していた。それは私に小熊さんとしての珍しさと心持よさとを与えたのであった。
 芸術家の生涯が、これからこそと、思うような時急に閉じられることが余り屡々であると思う。何故与えられている生命の時間がもう短くなったとき、芸術家たちは其とは知らず一段と新しい境地の敷居に立った姿を示すのであろうか。 (宮本百合子「旭川から-小熊秀雄氏の印象-」より)
  ●

 『青物市場(上落合)』を描いたとき、小熊秀雄は上落合の誰の家を訪ねたのだろうか? おそらく、彼の背後には特高の刑事が尾けていたと思われるが、ひょっとすると宮本百合子が書いている壺井繁治・栄夫妻Click!の集まりか、あるいは中野重治の家でも訪ねているのかもしれない。

■写真上:1930年代に制作された、小熊秀雄のスケッチ『青物市場(上落合)』。
■写真中上:上左は、1935年(昭和10)の「落合市街図」にみる上落合196番地の「上落合大市場」。上右は、まるで体育館のような1935年(昭和10)現在の「淀橋市場」。中左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合721番地の「上落合中井市場」あたりで、ドームのような構造物が確認できる。中右は、1938年(昭和13)の火保図にみる同所。下は、1935年(昭和10)に作成された「大日本職業別明細図(商工地図)」の、「淀橋区」裏面に掲載された9つの区内市場。
■写真中下:左は、1930年代に制作されたスケッチ『目白駅附近』。右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真にみる同作の描画ポイントで、やはり停車中の貨車が見える。
■写真下:1935年(昭和10)11月に撮影された、「サンチョクラブ」の記念写真。前列右端が小熊秀雄で、前列左から3人めが中野重治、同4人めが壺井繁治、同5人めが窪川鶴次郎。