下落合では、相馬邸の「黒門」Click!は住民の方々に強い印象を残している。それは、大江戸市街に建っていた大名家の、めずらしい長屋付きで袖(出番所)を抱えた門というだけでなく、門前で時代劇のロケーションClick!が行なわれたり、落合地域の総鎮守である氷川明神や邸内の太素神社Click!(妙見社)の祭礼の際、相馬邸が近所の人たちへ公開されるときに門扉が大きく開け放たれ、黒門を見上げながらその下をくぐって入った記憶がことさら強烈だったからだ。
 相馬邸の黒門は、1945年(昭和20)の敗戦前後、相馬邸を買収した東邦生命の社長・太田清蔵によって九州の福岡市へと移築され、その後、台風によって現地で倒壊したと伝えられてきた。また、相馬邸は1945年(昭和20)5月25日の空襲で焼失したとの伝承が地元の一部にはみられるけれど、実際には竹田助雄Click!が相馬邸の近くで戦後すぐのころ、「戦災じゃないな」と近くの老人に取材したとおり、黒門(および屋敷)は山手空襲Click!の前にすでに解体されて御留山Click!から消えていた。1944年(昭和19)に、陸軍によって撮影された下落合の空中写真を確認したところ、やはり相馬邸が影も形もないことは、すでにこちらでご報告Click!したとおりだ。同時点で、黒門もすでに解体され、九州へと運び去られていたことが今回の調査で判明している。
 では、今度は下落合の外側から、相馬邸の黒門のゆくえを追いかけてみることにしよう。わたしは、福岡県立香椎高等学校(旧・私立香椎中学校)にあったかつての正門が、東邦生命の太田清蔵が東京から移築した「黒門」であることを、かなり前から同校のサイトを通じてすでに知っていた。でも、この「黒門」は相馬邸(中村藩)のものではなく、南部藩(盛岡藩)のものを移築したと記載されていたので、そのまま見すごしていたのだ。太田のことを「黒門マニア」だと思ったのも、実は中村相馬藩に加え南部盛岡藩の黒門も福岡へ移築していたのか・・・と解釈したからだ。
 ところが、太田清蔵へ移築を依頼した当事者である、旧・香椎中学校の初代校長・長沼賢海が、藩名を“勘違い”して証言していたのだ。東京の下落合側から見るならば、「黒門」は太田によって確かに福岡へ移築されたはずなのに、「台風で倒壊した」との曖昧なウワサが伝わってきただけで、その後、忽然と姿を消してしまったように見えていた。それが旧・香椎中学校の正門であり、台風で倒壊したあと再建されたとは気づかれずに・・・。

 長沼校長が藩名を間違えたことで、現在でもまだ混乱はつづいているといえるだろう。福岡市に残された黒門に関する資料や、学校関連の記念碑(石碑)の文字が、いまでも「南部」のままになっているからだ。香椎高等学校が1996年(平成8)に出版した『「黒門」ものがたり』(非売品)では、同校の黒門が下落合の相馬邸にあったものであることが、改めて明確に規定されている。では、混乱のもとになったと思われる、長沼校長自身のインタビューを聞いてみよう。『「黒門」ものがたり』からの孫引きになるが、東邦生命が出版した、花田衛『五代太田清蔵伝』から少し長いが引用してみる。ちなみに校長は、この時点でも中村相馬藩と南部盛岡藩との混同に気づいてない。
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 その頃、翁が新たに求められた東京・目白の邸宅は奥州中村の南部藩の藩邸跡であったが、たまたま話がそこにあった門の話におよび、今時の普通の住宅門には似合わないが、方々から譲り受けたいという交渉がある云々、ということであった。/私は即座に香椎中学校の校門にしたいと申し出た。翁は直ちに賛成した。或いは私があまりにも強引にお願いしたが為であったかも知れない。咄嗟の間の取引であったから、経費や予算などを話し合う余裕もなかったので、あとで些か気がかりになった。/そのうちにはるばる東京から汽車で運ばれた。翁との話し合いには、門だけで結構であって、付属の門長屋ははぶいてもよいとのことで、私は少々遠慮したのであったが、その後、翁は大工と相談すると、長屋をなくしては外見が甚だしく損ぜられるので長屋もつけて運んだということであった。/間もなく長屋を控えた亭々たる黒門が建てられた。私が前に此の門を所望したのは、東に赤門の大学あり、西に黒門の中学あらしめようと夢見たのであった。大学と中学では、少々つりあいが悪いことは承知の上であった。 (同書「故太田清蔵翁の思い出」より)
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 長沼校長は、ここでは下落合に南部藩の藩邸(下屋敷)があったという二重の誤解(御留山Click!を含む一帯は幕府直轄の鷹狩場だった)の上に、「奥州中村の南部藩」という妙な表現をしているので、江戸期の歴史に詳しい方が聞いたらすぐにも「あれれ?」と気がついただろう。おそらく、校長は単に「南部藩」とだけ表現していた機会も多かったに違いなく、それが同校の「黒門」に関するさまざまな資料や記録に残されることになってしまったと思われる。
 
 香椎中学校は、1941年(昭和16)の日米開戦の年に太田清蔵が設立し、初代校長に九州帝大の教授でもあった長沼賢海を迎えている。当時、帝大教授が中学校の校長を兼務するというのは前例がなく、文部省の内部でもかなりモメたようだ。長沼の「東に東大赤門、西に香椎の黒門あり」という建学の意気ごみからもわかるように、彼は太田清蔵とともに福岡市へ大学建設をも射程に入れた、一大文教地区の建設プロジェクトを推進しようとしていたらしい。そのスタートとして私立香椎中学が設立され、シンボルに黒門が採用されたという経緯だ。
 でも、開校がちょうど太平洋戦争と重なってしまったため、さまざまな苦難にみまわれたことが同校の『「黒門」ものがたり』にも記録されている。東京からの解体した黒門の部材移送も、かなりの困難さをともなったようだ。部材の輸送は2年がかりだったものか、香椎中学が開校した1941年(昭和16)から翌年にかけて行われたようで、輸送手段も鉄道が確保できるときは少しずつ貨物列車で、それが無理なときは船便も使われたらしい。『「黒門」ものがたり』から引用してみよう。
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 長沼校長は大宰府におられたので二日市から汽車通学でよく一緒になり、黒門の話を聞いた。二度上京し、解体、輸送、宮大工など綿密に打ち合わせたこと。解体した資材は一本一本藁筵に包んで大型のタイヤ馬車で運んだこと。木材には切り込みにイロハ記号があり、軒先瓦、平瓦などと運び込まれたのを見た。 (同書収録のY・K「タイヤ馬車」より)
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 こうして1943年(昭和18)の3月、日本の敗色が少しずつ濃厚になりはじめた年に、香椎中学校の正門として下落合の旧・相馬邸から黒門の移築は完了する。
 
 しかし、戦争も末期に近づくにつれ、中学校の生徒たちは勤労動員で登校することがなくなり、せっかく移築した黒門の印象が、戦時中の在校生たちには希薄だったようだ。同校には一時、本土決戦に備えた陸軍が駐屯していた時期もあった。そして、敗戦直後の1945年(昭和20)秋、九州地方を襲った台風(枕崎台風?)によって、黒門は倒壊してしまうことになる。
                                                <つづく>

■写真上:1947年(昭和22)に撮影された、下落合の相馬邸から移築後の香椎中学校の黒門。
■写真中上:上掲写真の部分拡大で、門を出入りする人影からその規模や大きさがよくわかる。
■写真中下:左は、1915年(大正15)に撮影された下落合・相馬邸の黒門で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。右は、現在の同所。
■写真下:左は、香椎高等学校が1996年(平成8)に出版した『「黒門」ものがたり』。右は、1948年(昭和23)ごろに撮影された黒門の再倒壊後の様子。中間長屋や袖(出番所)が確認できる。