最近、古い本棚を整理しているのだが、大正期から昭和期の面白い本や資料がいろいろ見つかる。みんな、親父が読んだり集めていた蔵書や資料なのだが、地図類もたくさん保管されている。その中に、1950年(昭和25)ごろと1965年(昭和40)に発行された、日本地図株式会社の「東京都区分図」があった。1965年(昭和40)現在で、定価が100円のハンディな街歩きマップだ。
 その地図で、新宿区の落合地域を見ると、いろいろと面白いことがわかる。上掲の地図が、1950年(昭和25)ごろの落合地域だ。まあ、なんとスッキリわかりやすい地域名になっているのだろう。下落合のエリアは、古来どおり目白学園の西までグリーンに塗られており、その南側には上落合と戸塚町がちゃんとそのままだ。昔ながらの名称どおりで、現在のようにゴチャゴチャと妙な町名がないところがいい。東京府の風致地区だった葛ヶ谷Click!は、戦前から西落合という町名が新たにつけられ、いかにも計画的な碁盤の目のような街づくりがなされている。
 十三間通り(新目白通り)は存在せず、山手線の端にあった「大黒ブドー酒」Click!や「森永乳業」の工場が記載されている。旧・下落合駅Click!のあった氷川明神前の「駅前交番」や、目白文化村Click!の箱根土地本社Click!前にあった「文化村入口交番」Click!も、そのまま残っている。下落合駅近くに採取されているのは、交番ではなく「第四方面予備隊」と書かれているので警察予備隊の施設(宿舎?)だろう。そして、目白学園の隣りに国学院高等学校が採取されているのがめずらしい。同高校は、1949年(昭和24)から1956年(昭和31)まで下落合4丁目の目白学園近くにあった。
 でも、よく見ると「おやおや?」という記載も見られる。目白通りと山手通りの交差点から、下落合駅前へと南へのびる斜めの大通りは、いったいなんだろうか? 戦後すぐのころに立案された、計画道路なのかもしれない。聖母坂(補助45号線)よりも、はるかに道幅が広く描かれている。道筋から想定すると、「八島さんの前通り」Click!から西坂へと抜ける補助ルートのようだ。また、聖母病院や聖母短大がこの道の東側に描かれ、徳川邸Click!は野鳥の森公園の北側あたりに位置し、薬王院にいたってはミツワ石鹸の三輪邸Click!に建立されていることになっている。地図上で、勝手に引っ越しが行なわれているのだ。(爆!) 椎名町あたりで、山手通りから北へ分岐している大通りも気になる記載だ。聖母坂へとつなげる、補助45号線計画の名残りだろうか?

 さて、15年後の1965年(昭和40)に制作された同地図は、どのように描かれているのだろう。相変わらず地名変更もされておらず、新目白通りが存在しないのも同じなのだが、またおかしな記載になっている。聖母坂がちゃんと幅広く描かれるようになったにもかかわらず、山手通りと目白通りの交差点から南へ斜めにのびる道路も、そのまま描かれつづけている。
 しかも、聖母病院がこの道の西側へと「移転」している。(爆!) そのすぐ下に見える○印は、旧・落合町役場(落合村役場)の跡地にできた、新宿区の落合第一出張所だ。つまり、聖母病院が今度は聖母坂沿いから、落合第一小学校Click!の北へと「移動」しているのだ。10年ごとに、引っ越しをする大病院もめずらしい。^^; 「東京都区分図」をポケットに入れて、緑が多い下落合を散策しようとやってきた人たちは、フィンデル本館Click!が見たいのに落一小の北側をウロウロ探しまわりやしなかっただろうか? 1965年(昭和40)版からは、15年前の不正確な同地図とは異なり、目標物となる施設や邸の名前がほとんど省略されているので、薬王院へお参りするために三輪邸の門をくぐってしまう・・・などという心配は、なくなっていたとは思うのだが。
 そんなハンディマップを片手に、落合地域を歩きまわるにはいい季節だ。下落合の公園や空地、たまに残る畑などでは、あちこちで野山に咲く野草を観察することができる。既存の家が解体され、次に建て替えられるまで赤土の地面が露出すると、さっそく待ってましたとばかり野草たちが生えてくる。風で種子が運ばれてくるのか、あるいは上に家が建っていたときはジッと地中で発芽をガマンしていたものか、あっという間に草原となってしまうのだ。その情景は、まるで大正末から昭和初期に描かれた佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!に数多く登場する、「原っぱ」を髣髴とさせる。
 
 東京の街中を歩くときでさえ、ハンディな野外植物図鑑があれば便利なのだが、ちょうどいい図鑑が本棚から出てきた。1934年(昭和9)に三省堂から出版された理学博士・本田正次の『原色・夏の野外植物』と、翌年の『原色・春の野外植物』の2冊だ。ほぼ昔の小さな葉書サイズでオールカラーの本書は、発売当初から1円50銭と高く、数年で1円80銭へ値上がりしているようだ。同書のシリーズで、いちばん早く出版された『原色・夏の野外植物』の「はしがき」から引用してみよう。
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 近年植物採集が急に盛になつて来たことは何といつても喜ばしい現象である。自然に親んで植物を観察し、採集することは知識を獲得する上からは勿論、健康増進の点から云つてもどの位利益になるか分らない。特に当今の様に思想問題がやかましく云々される時にあつては尚更のこと注意を美しい自然物に向けて健全な品性や思想を涵養する事は最も必要なことではあるまいか。
                                                                (同書「はしがき・昭和9年6月」より)
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 政治の動きには目をつぶり、社会観を主体的に探求するのはよそう・・・と言っているに等しいので、今日からみるとすぐさま反発をおぼえる文章なのだが、ほんのわずか10年後、当の「健全な品性や思想」のために多くの飢えた国民が、食べられる野草まで求めて郊外や野山をさまよい歩くハメになるとは、当時の本田正次は思ってもみなかったことだろう。
 
 これらの図鑑は、鎌倉や湘南、丹沢、箱根、足柄などをハイキングするとき、必ず親父が携帯していたものだ。めずらしい野草が見つかると、子供のわたしにページをめくって花の名前や説明を見せてくれた。さて、街歩きマップが見つかり、原色の野草図鑑が出てきたということは、きっと親父が「もっと東京を歩け」と言っているのだろう。さっそく、下落合をベースにどこかへ出かけてみよう。

■写真上:1950年(昭和25)ごろに発行された、日本地図株式会社の「東京都区分図」。
■写真中上:1965年(昭和40)に発行された、同地図の落合地域。
■写真中下:1935年(昭和10)刊の『原色・春の野外植物』(三省堂)と、1934年(昭和9)刊の『原色・夏の野外植物』(同)。当時、オールカラーのハンディ図鑑はまだまだ高価でめずらしかった。
■写真下:ともに、鎌倉や大磯の山野でいまでも見かける、わたしの好きな野草たち。左は、一度見たら忘れられない有毒のウラシマソウ。色はともかく形状はどこかマムシグサに似ているが、マムシグサよりもかなり数が少なくめずらしい。右は、よく海の近くで群生を見かけるホタルブクロ。