一昨日、ブログへのアクセス数が200万を超えた。わたしは目白・落合地域、もう少し拡げれば江戸東京地方の方々が、このブログを読んでくださるのだろうと4年半ほど前にスタートしたのだけれど、実際には全国の方々、あるいは海外にいらっしゃる方までが読んでくださっているらしい。

 米国にお住まいの方と、いつでもすばやく地域の情報をコメント交換できるのも、ミッションクリティカルなネット環境ならではの社会だ。これからも、目白・落合地域を中心に東京地方に伝承された、あるいは埋もれ、あるいは意図的に消されてしまった物語を少しずつ見つけていきたいと考えている。いつも拙記事をお読みいただき、ほんとうにありがとうございます。<(_ _)> さて、のべ超200万人最初の記事は、小川薫様からの「上原としアルバム」より、地元のセピア色の記憶から。
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 「上原としアルバム」Click!の旧・椎名町界隈(長崎町→長崎南町→椎名町→南長崎界隈)で撮影された写真は、上原(旧姓・田中)とし様が1937年(昭和12)にバスガールを辞め(デモ参加を理由に解雇され)、結婚して下落合3丁目(現・中落合3丁目)から椎名町5丁目(現・南長崎2丁目)へと転居したのちに撮られたと思われる風景が、数多くとらえられている。時期的には、おそらく1938年(昭和13)から1941年(昭和16)ぐらいにかけて写された近隣の風景だろう。
 当時の世相をいちばん強く映しているのが、冒頭の写真だ。撮られた場所は、「長崎市場」に近接する空地で、赤紙Click!で徴兵された出征兵士の見送りの情景だ。市場は、以前に「目白市場」の記事でも書いたけれど、このころになると現在のスーパーマーケットあるいは百貨店のような存在で、さまざまな商店が市場のビルの中で営業していた。写真の背後に見える、レンガ造りの大きなお城のようなデザインのビルが「長崎市場」だ。当時の長崎市場は、1936年(昭和11)の資料によれば長崎南町2丁目4105番地、すぐあとの町名変更では椎名町6丁目4105番地に建っていた。目白通りから、斜めに北西へと入るバス通り(現・南長崎通りでやがて千川通り)へ100mほど入った左手、当時は映画館「洛西活動館」があった並びに位置している。
 この写真にとらえられた人物たちの服装を見ると、いまだカーキ色の国民服ではなく、羽織袴や着物姿で壮行会Click!へ参加する人が多く、また見送りには若い男性の姿も少なからず見えている。日米開戦ののち、出征兵士の見送りには白い割烹着の「国防婦人会」の女性たちと、老人や子供ばかり・・・という時代よりはかなり早そうだ。また、千人針や襷を下げた、見送られる出征兵士の服装も、軍服や国民服ではなく通常の背広姿で出ているので、おそらく1941年(昭和16)にはじまる日米戦の前、中国との戦争が泥沼化していた1939年(昭和14)前後の情景のように思われる。「非常時」という言葉はすでにつかわれはじめていたろうが、市民の間ではラジオや新聞を通じて知る「遠い戦争」であって、いまだ実感として戦争が身近に感じられなかったころだろうか。小学生ぐらいの子供たちの姿も多く、壮行会は休日を選んで行なわれたのかもしれない。以前も書いたけれど、セピア色の写真Click!は懐かしくのどかな香りがするのだが、背後のキナ臭い風も同時に運んでくる。
 
 
 次の写真3枚は、同じく南長崎通りか、あるいはその近くで撮影されたものだろう。乗合自動車のドライバーと、非番のバスガールらしい女性の3人が写る1枚目の写真は、道幅がかなり広いので目白通りに面した乗合自動車車庫あたりの情景かもしれない。道の向かいには、「洋服裁縫」と書かれた洋品店の看板と、「○○屋寝具店」の看板横に「毛布/ふとん」の幟が見える。
 赤ちゃんを抱く女性の2枚の写真は、風情からいってもバス通り(南長崎通り)沿いのものだろう。木の電柱の背後には、「○○町五丁目/○町出張所/○川牛乳店」と看板の下半分が見えているが、間違いなく椎名町5丁目の通り沿いだと思われる。もう1枚の写真には、「○川○製作所」と「大黒屋本(舗?)」の看板が見えている。大黒屋ののれんには、「志るこ」や「阿べ川」「三笠山?」と染め抜かれているので甘味処だろう。
 長崎神社(旧・長崎氷川明神)の祭礼と思われるスナップも、お神輿の写真Click!とともに残されている。これらの写真も、おそらく当時の椎名町5丁目あたり、バス通り沿いの風景だと思われる。女の子ふたりが写る背後は、商店街が途切れたあたり、庭木のような樹木が密に植えられているのが見てとれ、道路の端には大谷石の縁石が並んでいる。これは、岩崎邸の敷地の一部だろうか?
 
 
 大正期から昭和初期にかけ、岩崎家ではバス通りの西側(左手)に「岩崎園」と名づけた種苗会社、あるいは植木会社を経営していたようだ。通りを走る乗合自動車の後尾にも、「岩崎種苗店」Click!の看板広告を掲示している。当時の岩崎家敷地は広く、椎名町5丁目のバス通りを隔てて反対側(6丁目)のほとんど道沿いが、岩崎家の所有地だった。
 同じく、長崎神社の祭礼と思われる写真の中に、非常に秀逸な作品が1枚残されている。おそらく、祭りに参加する子供たちと、その母親を記念に撮影しようとしたのだろうが、手前に写る撮影者自身の影と、子供たちの目をカメラのレンズに向けさせようとしているのか、小さな傘を持っておどけているらしい大人の影が、手前に大きく写りこんでいる。カメラマンは、とっさに母親と子供たちの記念撮影をやめ、手前の影に強く惹かれたのか、母子から大きくズレてシャッターを切ってしまった。空地の向うには、通りに面した商店の側面なのだろう、布団や洗濯物が干されたベランダ(物干し場)が見えている。どこからか、お囃子の太鼓や笛の音が聞こえはじめると、ここに写る人々はとたんに静止をやめて、いまにも動きだしそうなほどリアルだ。


 旧・椎名町界隈で活躍した、戦前の町火消しの写真も残されている。日蓮宗の「千日講」で組織された火消しだと思われ、井桁橘(いげたにたちばな)の纏印は椎名町八番組の中の一派のものだろうか? 草鞋(わらじ)ばきのところまで、江戸期の町火消しのスタイルをそっくりそのまま踏襲している。1933年(昭和8)の地図を見ると、長崎南町3丁目2283番地(のち椎名町5丁目2283番地)に火の見櫓が見えているので、その半鐘が鳴りだすと同時に出動したものだろう。
 当時の町火消しは、江戸期と同様に建物の構造をよく知る大工・左官職や鳶職が務めており、火事場への出動には長い鳶口を引っつかみ、勇んで駆けつけたにちがいない。

■写真上:1939年(昭和14)ごろに撮影されたと思われる、出征兵士壮行会の様子。
■写真中上:上左は、おそらく椎名町派出所近くの目白通り沿いの風景。上右・下左は、椎名町5丁目界隈の情景。下右は、現在の南長崎通りで戦前と同じ練馬方面へのバス路線となっている。
■写真中下:上・下左は、長崎神社の祭礼の情景。下右は、千日講社のいなせな町火消し。
■写真下:上は、1933年(昭和8)の長崎南町(のち椎名町/現・南長崎)の市街図。下は、1936年(昭和11)に撮影された旧・椎名町を斜めに横切るバス通り界隈の空中写真。