下落合の相馬邸にあった正門=黒門Click!が、外桜田に建っていた中村藩相馬家の上屋敷正門そのものであり、向かって左側の出番所(袖)を落として片袖になったのではないか?・・・という記事Click!を、1941年(昭和16)にスタートした黒門の香椎中学校(福岡市)への移築Click!の経緯とともに見てきた。相馬郷土研究会が2001年3月に発行した、『相馬郷土』3月号掲載の田原口保貞「相馬中村藩邸黒門のゆくえ」論文では、相馬家が明治政府の命令により300mほど離れた津和野藩亀井家の上屋敷へ転居させられているので、同藩邸の片袖門が移築されたのではないか・・・との考察がなされている。でも、わたしは江戸時代の結構や格式へのこだわりが、まだまだ根強かった明治初年では、譜代の相馬家が外様の門がまえの屋敷に入るのには強い抵抗感をおぼえただろう・・・という前提のもと、相馬家は上屋敷の正門を解体し、妙見社(太素神社)ともども元・津和野藩亀井家の屋敷へ移築しているのではないか・・・と推測した。
 下落合の相馬家に関する貴重な資料を、いつもお送りくださる相馬彰様Click!より、津和野藩亀井家のいまに伝わる上屋敷正門の図版をお送りいただいた。相馬様は、島根県の津和野町郷土館にまで問い合わせてくださり、わざわざ「津和野藩江戸藩邸図」を調べてくださったのだ。さっそく図版を参照すると、案のじょう、まったく異なるデザインの正門だったことがわかる。津和野藩は外様なので、やはり豪華な門がまえは控えたのだろう、出番所(袖)としてはもっとも簡素な、片屋根(庇)仕様の造りになっている。しかも面白いのは、片袖門ではなく両袖の黒門仕様だったことだ。

 以前にも記事に書いたけれど、一般的に語られる5万石以下の大名は片袖門、5万石以上が両袖門(慣例として簡素な切妻仕様ないしは片屋根の簡易出番所)、10万石以上が唐破風仕様の豪華な屋根の出番所を配した両袖門・・・という“お約束”は、まるっきり後世の付会とまではいわないまでも、あくまでも大雑把な一般論であって、大江戸Click!の街中には例外があちこちに存在している。これらの“お約束”は厳格な規定ではなく、あくまでも統計的あるいは結果論的な“傾向”ないしは指針的な“慣習”にすぎないのではないかと考えている。むしろ、格式に関する門がまえの仕様はほんの一部であり、結構や屋敷がまえなどについての格式を表現する“お約束”は、もっといろいろ存在していたと思われるのだけれど、いまに伝わっていないのだろう。
 4万3千石の津和野藩上屋敷は、おそらく来客や人の出入りが多かったものか、片側だけの出番所(片袖)では間に合わず、門の両側に出番所(両袖)を設けて便宜をはかっていたのだろう。もちろん、これによって幕府から咎められる・・・などということはありえず、質素な両袖門は幕末まで使われつづけた。そして、改めて思うのだけれど、同じ両袖門とはいえ幕府譜代で帝鑑間に詰めていた格上の中村藩相馬家が、片屋根仕様の質素な両袖門の屋敷へ、いくら新しい時代を迎えた明治政府の命令だとはいえ、「ほい、いいよ~」とそのまま諾々と入居したとは思えないのだ。どうしても、豪華な破風仕様の出番所と中間長屋を備えた、相馬家上屋敷ならではの格式である両袖門を、そのまま転居先まで持っていきたくなっただろう。
 
 そのような意識で、改めて片袖となっている下落合・相馬邸の黒門をよく観察すると、正門脇のくぐり戸(脇門)が向かって右側、すなわち出番所や中間長屋が建っている側ばかりでなく、正門の左手にも設置されていたらしい痕跡が明らかに見てとれる。つまり、津和野藩亀井家の上屋敷へおそらく丸ごと移築されていた相馬家上屋敷の両袖門を、下落合へ再移築する際に向かって左側の出番所(袖)、および中間長屋を丸ごと落としている可能性が非常に高いと思われるのだ。なぜ両袖ではなく片袖移築になってしまったのかは、妙見社(太素神社)の移築と下落合の地形や道路事情との絡みで既述しているので、ここでは繰り返さない。
 往年の中村藩相馬家の両袖門を、つたないCG合成で再現したのが冒頭の写真だ。江戸時代、外桜田に建っていた相馬家上屋敷の表門は、おそらくこのような形状デザインをしていただろう。そして、下落合へ移築するときにも、門本来のデザインが両袖であったことに配慮して、向かって左手のくぐり戸(脇門)の設計をそのまま残し、しかも片袖門に多い向かって左側の出番所(袖)を残すのではなく、あえて右側の出番所および中間屋敷を残すことにより、本来の門の姿が両袖門であったことを後世まで伝えようとしていたのではないだろうか。
 
 現在、福岡市にある香椎高等学校の同窓会組織「香綾会」により、香綾会館へ大切に保存されている黒門の鬼瓦や雲版(うんばん)などのさまざまな部材は、外桜田に建っていた中村藩相馬家の上屋敷正門の部材そのものである可能性が、きわめて高まったように思うのだ。

■写真上:拙いCGで再現した中村藩相馬家の上屋敷正門、すなわち本来の両袖黒門の姿。
■写真中上:相馬様よりお送りいただいた、津和野町郷土館に残る津和野藩上屋敷の正門。
■写真中下:左は、外様ながら「別格譜代」扱いの津藩藤堂家(32万石余)の上屋敷両袖門で、明治以降は教部省(文部省)として使われた。右は、やはり外様ながら「親藩」扱いとなっていた鳥取藩松平池田家(32万石余)の上屋敷両袖門で、明治以降は兵部省(陸軍省)さらに一時は華族会館となっていた。比較すると、津藩藤堂家の出番所はかなり質素な造りだったのがわかる。
■写真下:ともに加賀藩前田家(現・東京大学)の赤門で、正門(左)と出番所裏(右)に残る懸魚(けぎょ)。正門左右の出番所は残るが、中間長屋は残念ながら早くに解体されて存在しない。