明治政府の廃仏毀釈と第2次世界大戦は、日本に存在した膨大な美術品をこの世から消滅させた。おそらく、半減といっても大げさではないだろう。以前に佐伯祐三Click!の記事でも書いたけれど、彼の作品の場合Click!はおそらく7割前後が、行方不明も含めて戦争を境に失われている。東京地方に集中していた良質な江戸浮世絵にいたっては、ほとんど壊滅状態Click!に近く、美輪明宏ではないけれど自分の国の文化や芸術を自身の手で粗末に破壊しつづけてきた国・・・というのが、残念ながら日本の姿なのだ。中村彝Click!の作品も例外ではなかった。
 1927年(昭和2)にアトリエ社から出版された北原義雄・編の『中村彜画集』の中には、戦災で失われてしまったと思われる彝作品の画像が何点か収録されている。この画集は、前年の1926年(大正15)に伊藤隆三郎、堀進二、遠山五郎、渡辺光徳、鶴田吾郎、前田慶蔵、洲崎義郎の7人による「中村彝作品刊行会」によって出版された『中村彝作品集』Click!をベースに、収録点数をカラー10点、モノクロ16点と約半数に絞って廉価にした普及版として企画されているようだ。序文は、盟友の鶴田吾郎が担当している。この中には、かつて彝の展覧会や画集、図録などでは目にしたことのない作品が、何点か収められている。
 まず、新宿中村屋Click!のショーウィンドウに飾られていて、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で焼失した、1909年(明治42)に彝が千葉県の白浜(現・南房総市)へ滞在して描いた幻の作品『曇れる朝』(25号)が目を惹く。同時期の『巌(いわお)』(1909年)とともに描かれた南房総の風景画だが、モノクロ画像なので詳細な質感や彩りは不明なものの、どうやら彝入魂の力作だったようだ。鈴木良三Click!が書いているとおり、確かに戦災で焼けてしまったことが返すがえすも惜しまれる作品Click!だろう。中村彝の、初期代表作になるはずの一作だったと思われる。

 「中原悌二郎日記」から、同年制作の『巌』と『曇れる朝』をめぐる所感を引用してみよう。
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 一枚は岩の絵で、ヘチ固い、写真的な絵だ。岩は確に現実の感がある。只海と空と何うしてもその物に見えぬ。もう一枚は曇り日で、ユルい勾配をなしてゐる。一面の草原で遠い山が少し見える。岩に比べると此の方が甚だ見劣りがする。色も落ちついてゐない。細い処まで忠実にやってゐるが、全体として感が纏まって来ぬ。部分々々の細い筆が甚だしく印象を散漫にする。然し地盤が強固に、ドッシリしてゐる。(「明治42年10月7日」より)
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 現存する『巌』のカラー画像を実際に観ているわたしは、色彩のわからないモノクロ画像と単純に比較することはできないけれど、今日的な眼から見れば『巌』のほうがむしろありがちで平凡な構図に見え、『曇れる朝』のほうが出来がいいのではないか・・・とさえ思う。もっとも、かなり細かなディテールや繊細な描きこみが行なわれているようなので、いわゆる中村彝の後年作品と比べるとかなり違和感があり、好みの分かれるところなのかもしれないのだが。
 
 
 下落合のアトリエClick!風景を描いた、これまで観たことのない作品も収録されている。『庭の一隅』とタイトルされた、南側の庭からアトリエの東側を少し画面に入れ、北東を向いて仕上げたと思われる、まるで習作のような作品だ。(冒頭写真) モノクロではっきりとはしないが、木炭か鉛筆で素描のあとに油絵具をうっすらと乗せて着色してあるようだ。窓の上には藤棚の竹組みがあり、建物の外壁角からは東側に張り出した小部屋の屋根がのぞいている。1916年(大正5)ごろ、同じく『庭の一隅』と題された作品があるので、同時期にスケッチされたものかもしれない。
 『中村彜画集』の表紙に使われている、モデルの素描もめずらしいものだ。現在の図録や画集には見えないので、これも戦災で失われたか行方不明になった可能性のある作品だ。おそらく、1921年(大正10)に制作された『女』Click!の下描きにちがいない。同画集にも『女』は掲載されているのだが、現タイトルではなく『女の像』となっている。現在の作品名とは異なり、当時の題名を知ることができるのもこの画集の貴重な点だ。たとえば、新宿中村屋の次女・千香を描いた『帽子を被る少女』(1912年)は、おそらく描かれた当初から『少女習作』と呼ばれていたのだろう。彝は習作の次に、本番の作品を予定していたのだろうか? その後、俊子との問題で中村屋を出てしまい果たせなかったのかもしれない。下落合のアトリエに、彝が死ぬまでずっと架けられていた作品Click!だ。ほかにも、『雉子の静物』(1919年)が『鳥』というタイトルで掲載されていたりする。
 
 中村彝の作品は戦後、そのほとんどがきれいに修復されて傷みが目立たなくなっているけれど、1927年(昭和2)の『中村彜画集』に掲載されている作品は、当然ながら彝の死後3年しか経過しておらず、修復前の画面がありのまま複写されている。『自画像』(1912年)や『少女習作(帽子を被る少女)』の表面はヒビ割れだらけで、いまにも絵具が剥落しそうだ。
 前年に刊行された『中村彝作品集』があまりに高価だったので、普及版の画集を待ちわびていた人たちがいたかもしれない。でも、3円50銭は決して安くはない価格だったろう。コンスタントに売れつづけたものか、1931年(昭和6)には重版が出ている。

■写真上:左は、1916年(大正5)ごろに習作として描かれたとみられる中村彝『庭の一隅』(当時の画題)。右は、モチーフに選ばれた中村彝アトリエの南東角あたりで、1919年(大正8)ごろの様子。ベッドに寝て顔をのぞかせ、カメラのレンズを見つめているのは中村彝自身。
■写真中上:1909年(明治42)に描かれ、新宿中村屋で空襲により焼失した幻の『曇れる朝』。
■写真中下:上左は、1927年(昭和2)に出版された『中村彜画集』の函。中村彝の「つね」の字が、「彝」(糸)ではなく「彜」(分)になっている点にご注目いただきたい。これは誤植ではなく、彼はサインに「彝」と「彜」の字の双方を使用しているので、どちらも正しいということになる。上右は、やはりいままで見たことがない彝アトリエで描かれた制作年不詳の『静物』。下左は、1921年(大正10)に描かれた『女の像(女)』の下描きと思われるめずらしい素描。下右は、同年制作の『女の像(女)』。
■写真下:修復前でヒビ割れだらけの、『自画像』(左)と『少女習作(帽子を被る少女)』(右)の部分。中村彝の作品画像は、いずれも『中村彝画集』(アトリエ社/1927年)より。