親父の世代までつかわれていた東京弁に、「生野暮」という言葉がある。「きやぼ」あるいはまだるっかしいので縮めて「きゃぼ」などと発音される。親父は、ごくたま~にしかつかわなかったので、すでに戦後はほとんど死語に近い存在だったのだろう。江戸時代からつかわれている言葉だが、いまや「おきゃがれClick!(起きやがれ)」よりも認知度が低い江戸東京言葉となっている。もちろん、東京方言の山手言葉には存在せず、下町Click!ならではの言葉だ。
 「生野暮」は江戸期の意味と、明治以降の意味とでは大きく変化をしてきている。たとえば、江戸の安永年間ごろにつかわれていた「生野暮」は、もうどうしようもない「馬鹿」と同義としてつかわれている。「イキ」(江戸東京地方ならではの格好がいいスマートな様子やふるまい)の対語としてつかわれた、「野暮」(垢抜けせずこの地方の人情や嗜好に合わない様子やふるまい)とはやや異なり、江戸期の「生野暮」の意味は強烈だ。すなわち、「生野暮」=「まったくの野暮で基本的な人情さえ理解できない世間知らずの薄ら馬鹿」・・・ということになる。ところが、この「生野暮」という言葉は、時代とともにその意味が微妙に変化をつづけ、「野暮」という言葉とは意味がほとんどつながらない、独特な風情を表現する言葉として進化をとげた。もちろん、親父の世代がつかっていた「生野暮」は江戸時代そのままの意味ではなく、進化をとげたあとの意味としての用語だ。
 明治以降の「生野暮」の意味を、ズバリと言いきり型で表現するのはむずかしいけれど、強いて言えば「やたら生々しすぎる」とか、「装わずにあからさまな素や地を出しすぎる」・・・というような意味になるだろうか。そう表現しても、なかなか言葉の内実をピタリと言い当てていないように感じるのは、以前に記事へも書いた「おきゃがれ」のケースと同様だ。その場面場面や会話の流れで、言葉が備える微妙なニュアンスがくるくると変化する感触が残っている。
 
 
 お気づきだと思うが、この地方では「馬鹿」と同様に最悪の表現のひとつである「野暮」に比べ、明治以降につかわれた「生野暮」という表現は、それほど悪い意味合いではなくなっていた。(といって、それほど良い意味でもない) いい例が見つからないのだが、たとえば・・・夜も更けた銀座でサバのようにギラギラした高価だが品のない着物に、白塗白首のホステスさんが突然ビルの地階の暗闇から出てきたりすると、「お化けが出た!」とギョッとするのだけれど、「野暮ったい」とは感じても「生野暮」だとは思わない。ところが、新宿あたりの手軽なバーで、薄化粧にちょっと髪がほつれてたりして、どこかくたびれた生活感が漂うようなホステスさんがいたりすると、「主婦のバイトなんだろうな、不況だからタイヘンだよね」と、なんとなく「生野暮」感をおぼえる・・・というような感触だろうか? もちろん、わたしは銀座も新宿も、ホステスさんのいるような店には縁がないのだけれど。
 豊国に比べ写楽の役者絵は「生野暮」だ、日活ロマンポルノに比べアダルトビデオは「生野暮」だ、きちんとした刺身料理に比べ活き造りは「生野暮」だ、映画作品のメーキングを見せるのは「生野暮」だ、最近の楽屋落ちのようなネタばかりのバラエティ番組は「生野暮」だ・・・と、いろいろなシチュエーションでつかえそうなのだが、いまや根っからの地付き江戸東京人でさえ、この言葉をつかっているのを聞いたことがない。そう、この言葉を代替する表現として、「デロデロ(生野暮)じゃねえか」とか「デレデレ(生野暮)するのはおよし」という東京弁もある。
 
 日本橋馬喰町(ばくろちょう)や浅草六区Click!にいた矢場女(的矢女Click!)の研究をした、日本橋の洋画家・木村荘八に助けてもらおう。矢場女はもちろん矢場にいて、客が矢を射ると「大当たりー!」とか叫んだりする女性のことだ。純粋にゲームやスポーツとしての矢場(楊弓場)も、もちろんたくさん存在していたが、中にはいかがわしい女性を置き、表面上は「矢場」と称していた見世も少なくなかった。そんな矢場にいた女性のことを、木村荘八は「生野暮」と表現している。1953年(昭和28)に出版された、木村荘八『続現代風俗帖』(東峰書房)から引用してみよう。
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 東京の街景の印象を思つてもそれは大体黒と白と、樺色と紺と緑、と云つたやうな、冴えていながら、重い調子のものである。----従つて矢場女のつくりもこれに応じた。髪の濡羽色、首から顔にかけての白塗、黒襟に黄八丈、赤の蹴出し・・・と云つたやうなものである。矢場女は必ずしもイキだつたとは限らない。却つて「矢場女のやうだ」といふ言葉の表現が暗に示すやうに、ベロベロ、デレデレとして、生々しく、色つぽかった。つまり、生野暮に近かつたと見るのが、当るかもしれない。 (同書「矢場」より)
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 もちろん、わたしは木村荘八が研究した矢場を知らないし、そこにいた黄八丈のデレデレ矢場女を見たこともないけれど、なんとなく彼女たちの「生野暮」だった風情が目に浮かぶようだ。そのような見世では、矢の的(まと)が架けられた壁一面には、大空と雲が描かれた垂れ幕が多く下がっていたらしい。その垂れ幕の背後には、広さ3畳ほどの小部屋がいくつか設けられていて、「商談」が成立した矢場女と客とがシケこんでいたようなのだ。
 現在でもつかわれることが多い東京方言の「雲隠れ」という言葉が、どこか艶っぽい雰囲気を含んでいるのは、矢場女と客とが「雲」の描かれた垂れ幕の陰に「隠れ」た様子を表現したものが、巷間でも広くつかわれるようになったからではないか・・・とニラんでいる。

■写真上:いかにも「生野暮」感が漂う、「彼女以外乗車禁止」のデレデレ・オスガキ自転車。
■写真中上:上左は、「美しいでしょ!」とこれ見よがしに咲く「野暮」なシャクナゲ。上右は、対照的にひっそりと清楚に咲くスイレン。下左は、金キラキンの真っ赤っかで「野暮」を代表するような晴れ着Click!。下右は、いかにもこの地方の美意識を映す「イキ」で洗練された江戸手描き友禅染め。下落合/上落合は、江戸小紋や江戸手描き友禅の“本場”なので、次回の記事で書いてみたい。
■写真中下:左は、音羽・護国寺にあるゴテゴテと鳥居や燈籠だらけの「野暮」な大隈重信の墓。右は、その生涯からかどこか「生野暮」な感じを受ける指ヶ谷・円乗寺の八百屋お七の墓。
■写真下:左は、女性が目当ての「雲隠れ」矢場。右は、ゲームやスポーツとして楽しむ矢場(楊弓場)。ともに明治期にオープンしていた見世の様子で、思い出しながら描いたのは木村荘八。