夏になると、東京のあちこちで打ち上げ花火がある。大規模な大会は、お盆明けの大川(隅田川)の花火大会Click!をはじめ東京湾、多摩川、板橋の各花火大会、そしてしょっちゅう打ち上げているのが神宮・・・という具合だ。この中で、下落合まで響いてくるのは大川と東京湾、そして神宮球場の打ち上げ花火の音。家の3階からときどき見えるのは、神宮の花火ということになる。
 ドーンドーンと、お腹に響いてくるような花火大会の音をイヤがる人たちが、東京地方にはいまでもたくさんいる。もちろん、1945年(昭和20)3月の東京大空襲Click!や、同年4~5月の山手空襲Click!の記憶が、64年の時を隔てて直接的に呼び覚まされるからだ。うちの親父は、近くで花火大会を観るぶんには、両国橋Click!の西詰め近く(薬研堀)で育っているせいか、それほどイヤな顔をしなかったのだけれど、少し離れた場所での打ち上げ花火には複雑な表情を浮かべていた。おそらく、B29の絨毯爆撃が身近に迫る直前、そのような爆発音が遠くからだんだんと近づいてきたのだろう。東京の住宅街にバラまかれたのはナパーム焼夷弾ばかりではなく、ときに250キロ爆弾も混じっていた。親父は、東京大空襲Click!と山手空襲Click!の双方を体験している。
 東京大空襲で東日本橋Click!の実家を焼け出されたあと、大学近くの下宿先へ避難Click!していたのだが、1ヶ月後に再び空襲にみまわれた。親父が下宿していたのは淀橋区諏訪町224番地界隈、ちょうど諏訪町と戸塚町3丁目の境界あたり、現在の高田馬場駅と諏訪神社の中間点で、山手線の線路にもほど近いところだ。1945年(昭和20)4月13日Click!夜半、神田川沿いの工場地帯をねらったと思われる山手空襲では、火災がジリジリと南へ延びてきたのだが、そのときは北側の2~3軒隣りで延焼が止まった。やれやれと思っていると、今度は5月25日夜半に二度めの山手空襲があり、絨毯爆撃を受けているにもかかわらず、このときもなんとか下宿の建物は焼け残った。
 
 義父には、花火の音について一度も聞いたことはなかったけれど、夏になるとスイカの輪切りに顔をしかめていた。義父は“運がいい”ことに、1940年(昭和15)9月の「安南上陸」(ベトナム北部への進駐)を最後に兵役を終えている。だから、翌年からはじまる太平洋戦争中はずっと国内にいて、東京の大規模な空襲時には被災者救護に、戦争末期にはコロネット作戦Click!に備えた塹壕堀りのため、房総半島Click!の九十九里浜へと動員されていた。多くは話したがらなかったが、その断片的な口ぶりから、ベトナムに上陸する以前の中国戦線で頭を吹き飛ばされた、あるいは頭がパックリ割れた遺体を何度も見ているのだろう、死ぬまで赤いスイカを口にすることはなかった。しょっちゅう馴染みのある下落合に遊びにきて、何日も泊っていった義父なのだが、彼にとっての夏は炎天下の塹壕堀りの記憶や打ち上げ花火の音も含めて、しのぎにくい季節だったのではないかと思う。
 先日、You Tubeをサーフしていたら「戦争遺跡」(War ruins)Click!という動画が登録されていたので、何気なく見てしまった。旅行先でふたりの若い女性が、公園内に保存されている分厚いコンクリートで造られたトーチカないしは防空壕と思われる、太平洋戦争中の「戦争遺跡」をビデオ片手に見学に訪れるのだが、その壕内で収められた音声はちょっとショッキングだった。明らかに、爆撃ないしは砲撃のような響きが、ステレオサウンドで記録されている。ありがちな「心霊動画」というショルダーが付いているのだけれど、「心霊」だか「時空の歪み」で聞こえてしまった過去の音声だかは知らないが、低音が豊かな少しサイズの大きいスピーカーで聞くと、この地響きのようなサウンドが、親父たちの世代にはことさら苦手だったのだろう。
 
 今年(2009年)の初めにも、世田谷で不発弾が掘り出されているが、東京の地下にはあとどれぐらいの不発弾(爆弾や焼夷弾)が埋まっているのか見当もつかない。そのほとんどは、腐食してすでに爆発や燃焼の危険性はないのかもしれないが、都内でマンションやビルなど少し深く掘削する建設工事があると、毎年どこかで不発弾の避難騒ぎが起きている。
 ときどき思い出したように発見される、文字どおり亡霊のような不発弾からは、そのつど「忘れるんじゃねえぞ」と言われているようで、わたしが暮らしている地面の1枚下に隠れてしまった、60余年前の「亡国」一歩手前までいった危うい歴史を、まざまざと思い出させてくれるのだ。

■写真上:目白崖線に反響するせいか、下落合では打ち上げ花火の音がよく聞こえる。
■写真中:左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる親父の下宿があった焼け残りの諏訪町224番地界隈。右は、戦争直後に城東区の小名木川上空から撮影された隅田川や東京湾の眺望。
■写真下:左は、中野区歴史民俗資料館に展示されているM69ナパーム焼夷弾(左)と250キロ爆弾の尾部(右)。右は、戦争を境に終生義父が口にしなくなった夏の味覚・スイカ。