わたしが15歳まですごした神奈川県の海っぺりでは、北条政子Click!の存在感がきわめて大きい。源頼朝よりも、地元でははるかに“有名人”かもしれない。湘南の中央に平塚という街があるが、政子さん(たぐい稀な存在なので、つい「さん」付けで呼んでしまうクセがある)が死去したとき、巨大な墓塚が築かれたのだけれど、もともと砂丘地帯だったために風化で平らになってしまい、それ以来「平塚」と呼ばれるようになった・・・などという、まことしやかな伝承がある。もちろん、江戸期あたりに作られた出来の悪い付会だろう。政子さんの伝承やエピソードは、学校の授業や資料にもたびたび登場した。それだけ彼女の存在感が神奈川の、ことに南部では大きいのだ。
 なぜ政子さんの存在感が大きいのかといえば、それだけ彼女について語り継いできた人たちが、後世まで大勢いたということ。換言すれば、鎌倉幕府における彼女の存在自体が、早くに死んでしまった源頼朝に比べ、多くの口承伝承を育むほど非常に大きかったことがうかがえる。面白いのは、鎌倉幕府を支えつづけたあまたの関東武士団が、ヘゲモニー争いの内紛を繰り返しつつも、政子さんの存在を別格視=ある意味で聖域視していたフシが見えることだ。その別格扱いは、頼朝の連れ合いだったから・・・というポジションにとどまらず、鎌倉幕府のCEO、政所の合議で決着しない政治案件の最終的な意思決定者としての、カリスマに近い存在感を示している。
 このような位置にいた女性は、「日本史」上においてもきわめて稀有な存在だ。政務の重要案件を、審神者(さにわ)である弟から吸い上げ、最終的な意思決定を行なったとされる巫女王(ふじょうおう)・卑弥呼を連想してしまうのは、わたしだけではないかもしれない。朝鮮半島から、新モンゴロイド系民族に付随する男系(父権)思想がナラ(国)へと持ちこまれる以前、文化人類学的にいえばそれとは180度正反対の、古モンゴロイド系のポリネシア色が強い女系(母権)社会の性質が、すなわち卑弥呼が生きた社会と同質の、本来的な日本社会(原日本)の様相が色濃く残る、関東地方ならではの政治体制=政子現象だったのかもしれない。彼女の姿は、歴史上でも表現されがちな「夫を背後からあやつる妻」というようなものではなく、自身が政治的にも軍事的にもヘゲモニーを掌握し、のちに数十万といわれる鎌倉幕府軍を統率していることでも明らかだ。
 
 よく「天下分けめの戦い」という表現が、1600年(慶長5)の「関ヶ原の戦」に用いられる。でも、この戦争は東軍が勝とうが西軍が勝とうが、どちらに転んでも武家政権には変わりなかったわけで、より大規模な支配階級がひっくり返ってしまうほどの、歴史的かつ革命的な戦闘ではない。でも、北条政子が指揮した「承久の乱」は、二度と朝廷や公家へ政治のヘゲモニーを渡さず、以降近世にいたるまでの武士階級の決定的な政権基盤を創りあげた、ないしは強固な武家政権の継続を不変のものとして宣言した、本来の意味での「天下分けめの戦い」=革命的な戦闘だったと思うのだ。政治のヘゲモニーが、ある階級から別の階級へと移行するのを決定づける大きな戦闘が、女性の意思決定によって行なわれたのは、非常に興味深い「日本的」な現象なのだ。
 幕府政所の協議で、たったひとり大江広元を除いて北条氏を含む幕臣全員が、東へ進撃をつづける朝廷軍から鎌倉を防衛するという、消極的な「箱根迎撃戦」を主張したのに対し、最終的な政子さんの意思決定は、短期間で集められる騎馬軍団中心で構成された幕府軍全軍(『吾妻鏡』によれば最終的には19万の大軍にふくれあがった)による、朝廷軍の撃破と敵の本拠地=京への間をおかぬ突撃だった。幕府から派遣されていた子飼いの重臣・伊賀氏を、だまし討ちに近いかたちで殺戮した朝廷に、彼女はよほど腹を立てていたのだろう。面白いのは、東海道を京へ向けて進撃していた幕府軍から鎌倉へ、「途中で朝廷軍と出遭ったら、マジに攻撃してもいいっすか? ・・・マジっすか?」(北条泰時/爆!)というような、最終的な意思確認が少なからず行なわれていることだ。このとき、幕府軍の中には後世の幕府を次々と担うことになる、古墳期からの上毛野勢力の末裔と思われる北関東では大きな勢力だった足利氏や、隣接する新田・世良田氏(のち松平・徳川氏)も間違いなく彼女のもとへ駆けつけ、戦闘へ参加していたにちがいない。
 その後、旧・支配階級へ政権はもどらず、以降700年近くも武家政権が持続したことを考え合わせれば、このときの政子さんの決断が「日本史」上で、いかに決定的な効果と重要な役割りを果たしたかがうかがわれる。もちろん、明治政府が作り上げた「日本史」では、そしてその影響を払拭し切れていない現状では、彼女の存在は「日本史」上はおろか鎌倉幕府史内でも、意図的に希薄化され「恐妻」として面白おかしく語られているように見える。しかも、同戦争の指導者が男ではなく女性だったことも、ことさら明治以降に矮小化を推進する要因となったにちがいない。でも、地元・神奈川をはじめ、武家政権の本質的な基盤である関東地方では、彼女の存在感がきわめて大きい。

 
 下のオスガキが中学校へ入ったばかりのころ、夏休みの自由研究に「日本史新聞」の課題が出た。テーマに困っていた彼に、「東女(あずまおんな)の政子さんを取り上げよ~ぜ」・・・と吹きこんだのはわたしだ。彼はさっそく鎌倉幕府について調べはじめ、政子情報の収集をはじめた。基本資料として、『吾妻鏡』や各種『日本の歴史』などを参考資料に、インターネットのサイトなども参照しながら、いまにも謀反を起こしそうな家臣の館へ単身乗りこみ、「そんなこと考えてちゃダメじゃないの!」と叱りつけるケタ外れの「武家の女棟梁」=政子さんに、かなり興味をもったようだ。
 鎌倉時代の刀工作品である太刀(たち)を持たせてもらい、政子さんが決定的な役割りを果たした当時の戦闘=「承久の乱」へのイメージを急速にふくらませ、1221年(承久3)6月15日発行の「鎌倉新聞」(号外)を作りあげた。ちなみに、鎌倉時代の太刀は坂東武者の騎馬戦における太刀打ちClick!を前提とするため、刃長4~6尺(約120~180cm)もある長大なもので、中には2mを超えるものも決してめずらしくないのだけれど、そのほとんどの作品が江戸時代に摺り上げられ(短縮され)、3尺(90cm)以下の長さになっている。だから、神奈川Click!の質のよい砂鉄と高度なタタラ(精錬)による素材(鋼=目白)の“軽さ”と、独特な相州伝による作刀技術とが相まって、中学1年生ぐらいの子供でも容易に手にすることができるほど「軽量」なのだ。同じ長さの刀でも、のちの江戸期に制作される新刀Click!や新々刀Click!の作品群は、重たくてとても子供には持てないだろう。
 
 このとき、子供を連れて政子さんの墓詣りには行かなかったけれど、のちに扇が谷(おおぎがやつ)の寿福寺の墓へは、わたしが代参している。政子の墓といわれる五輪塔や宝篋院塔は、安養院などほかにもいくつかあるので、機会があればそちらにも随時立ち寄りたい。特に安養院にある宝篋院塔は、30年前に立ち寄って以来のご無沙汰なので気になっている。そう、お墓が多いということも、いかに彼女についての物語が地元で豊富だったのかを、文字どおり物語っているのだ。

■写真上:扇が谷は寿福寺にある政子さんの墓と伝えられる五輪塔で、いまでも献花が絶えない。
■写真中上:左は、寿福寺の山門。右は、寿福寺に隣接する鎌倉幕府の重臣・相馬師常が、邸内のやぐらClick!に奉っていた相馬天王社。もちろん、下落合の相馬さんClick!のご先祖だ。
■写真中下:オスガキが自由研究でこしらえた、1221年6月15日発行の「鎌倉新聞」(号外)。当時、あまりに字がきたなかったので、社会の先生が目を傷めたというウワサもある。
■写真下:左は、本覚寺にある相州伝の代表刀工・五郎入道正宗の墓と伝えられる宝篋院塔。おそらく、小田原帰りの山村(綱広)家が江戸期に建立した供養塔ではないかと思われる。右は、馬からコケて死去したと伝えられる、「武家の棟梁」としては少し情けない政子さんの夫の墓。頼朝は馬入川(ばにゅうがわ=相模川)でも馬からコケており、妙な「英雄史観」ばかりで染められず、奥さんに比べて情けない伝承まで数多く残っているのも、関東地方ならではの風土なのかもしれない。