明治時代の野球用具を見ると、まるで武道の防具のような形状をしている。明治期には、野球は武道の一種と捉えられていたフシがあり、野球大会の主催者には雑誌『武侠世界』なんて出版社がなってたりした。キャッチャーマスクは、まるで剣道の防具から頭巾を取ったそのままだった。
 これらの野球用具が洗練されてくるのは、大正期から昭和初期にかけてのことだ。試合の実際や経験を通じて、あるいは米国の製品を参考にしながら少しずつ改良が加えられ、今日のような姿にできあがっていった。中でも、スポーツ用具メーカーが果たした役割りは大きい。当時の雑誌を見ていると、スポーツ用品メーカーの面白い媒体広告を見つけることができる。特に野球の世界では、大阪に本店を置く「美津濃」が頻繁に広告を掲載している。いまから80年ほど前の『野球界』各号から、同メーカーの面白い広告をひろってみよう。
 まず、野球のユニフォームなら美津濃におまかせ・・・的なキャッチフレーズが、すでに1916年(大正5)の同社広告に見えている。いわく、「野球大会シーズンと/撰手(ママ)諸君の/清麗なる服装は/東洋一の運動服装店なる/美津濃本支店より出づ」とうたっていることからも、ユニフォームの草分け的なメーカーだと美津濃が自負していたことがうかがえる。
 また、大学野球で公式ボールに採用されたらしい「大学リーグボール」や、特別な工夫がほどこされているグラブなのか「加藤式グラーブ」というのを、美津濃が独自に開発して販売している。「大学リーグボール」は、略して“大リーグボール”と呼んだかどうかは知らないけれど、1927年(昭和2)には全国中等学校野球大会Click!や全国高等専門学校野球大会、全国選抜中等学校野球大会と、当時の3大野球大会の「指定球」に認定されている。
 
 
 ちなみに、「大学リーグボール」と「加藤式グラーブ」の広告を見ると、いまでは考えられないような“大誤植”があって面白い。手描きのキャッチフレーズが「大学ホール」になっていたり、ボディの活字が「加藤式クラーブ」になってたりする。1927年(昭和2)の媒体広告だが、広告を手がけた図案家(デザイナー)や版下会社の担当が、きっと野球のことをあまり知らなかったのだろう。いまなら、即出入り禁止の許されないミスだ。野球の一大ブームといっても、今日のようにマスメディアが発達しておらず、ほんとうに興味のある人たちのみが熱狂していたもので、ボールとかグラブという名称が誰にでも浸透し一般化するのは、もう少しあとの時代になってからのことだろう。
 美津濃は、野球用品以外にも当時からさまざまなスポーツ用品を販売している。男女用を問わず、「海を完全に征服せる/スーパー・メルマン海水着」(どうやって海を征服するんだろ?)というすごいショルダーのついた水着をはじめ、健母会指定の「健母海水着」などというものまで売っていた。今日の目から見ると、男用の水着もワンピース仕様になっているので少々不気味だ。海からあがったお兄さんが、片手を挙げて「おーい、海を征服したぞー!」とでも叫んでいるポーズは、無声映画で当時から人気のあった「ターザン」を髣髴とさせる怪しさだ。
 
 さらに、美津濃はファッションの分野にも進出しようとしていたようで、セーターやチョッキ(現・ベストのこと)、ズボン(現・パンツのこと)、はてはナイトキャップまで販売している。面白いので、同社のボディコピーを全文引用してみよう。
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 無地に 織物に 柄物に
 ジヤガードに 一般用に 運動用に
 紅紫とりどりに百花繚乱
 スヱターは絶対安心保証付の
 美津濃のスヱターを
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 「絶対安心保証付」きと書かれているけれど、「スヱター」を着るとなにか危険なことでもあったのだろうか? その心配事が実際に起きてしまったら、いったいどのような保証が受けられるのか、ちょっと意味不明のコピーなのだ。
 
 大学野球をはじめ、さまざまな野球大会の指定メーカーやスポンサーに選ばれ、スポーツ用品にとどまらず多様な製品を開発して急激に成長したものか、美津濃は1927年(昭和2)に大阪の淀屋橋1丁目に、9階建ての本社ビルを建設している。

■写真上:1927年(昭和2)に大阪淀屋橋に落成した、美津濃の9階建て本社ビル。
■写真中上:上は、野球博物館に保存されている明治時代の野球用具。キャッチャーマスクは、まるで剣道の防具だ。下左は、1916年(大正5)の『野球界』9月号に掲載された美津濃の広告。下右は、1927年(昭和2)の『野球界』9月号表4の美津濃広告。
■写真中下:左は、1927年(昭和2)の『野球界』6月号の「メルマン海水着」。右は、同年の『野球界』11月号掲載の「スヱター」広告。いまから見ると、趣味が悪く野暮ったく感じてしまう。
■写真下:左は、全国中学校野球大会でスケッチする漫画家(洋画家)・岡本一平。右は、1931年(昭和6)の代表作『平気の平太郎』。東京美術学校で藤島武二に学び、その漫画表現に注目した夏目漱石が朝日新聞社に紹介した。いまでは、岡本かの子や岡本太郎の父親としてのほうが有名だろうか。大正後期から、東京6大学野球を中心に野球人気は急速に高まっていった。