先日、吉田隆志様Click!のお招きにより、三鷹市美術ギャラリーに「世界をめぐる吉田家4代の画家たち」展の内覧会へお邪魔してきた。同展は、吉田博の義父である洋画家・吉田嘉三郎をはじめ、下落合に暮らした吉田博、博夫人である吉田ふじを(藤遠)、子息の吉田遠志と吉田穂高、穂高夫人である吉田千鶴子、そして穂高・千鶴子夫妻の子女である吉田亜世美と、吉田家4代にわたる前代未聞の美術展だ。これだけ美術家を代々輩出しつづける同家は、世界的にみても稀有な存在だろう。会場へ着いたとき、すでにエレベーターの前まで来訪者があふれており、人々を魅了してやまない吉田家の多彩な表現の魅力と人気とを実感させていただいた。
 目白文化村Click!(第三文化村)にアトリエをかまえた、下落合の洋画家であり版画家の吉田博Click!については、これまでにもこちらで頻繁に取り上げてきている。同じ太平洋画会の満谷国四郎Click!も下落合に住んでいた関係から、中村不折Click!らとともに同会の創立メンバーとして記載することも多かった。また、目白文化協会Click!のテーマと関連して、子息の吉田遠志Click!と吉田穂高Click!についても掲載している。第三文化村の吉田邸+アトリエについては、巨大な西洋館という地元の方々の記憶と、米軍のB29が撮影した空中写真からおおよそ想像するだけで、わたしはその姿を見たことがなかった。1970年代半ば、高校時代から下落合を散策しはじめているわたしは、1968年(昭和43)ごろに解体されてしまった同邸を目にしていない。このたび、吉田様より同邸の外観およびアトリエなどの室内写真の掲載許可をいただけたので、改めて当サイトでご紹介したい。

 
 1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で、吉田邸はかろうじて焼失をまぬがれている。1947年(昭和22)に米軍が、爆撃効果測定用に撮影した空中写真を見ると、第三文化村も含めた聖母病院Click!の北側一帯は焼け野原で、緑に囲まれた佐伯祐三Click!アトリエと青柳邸Click!などがなんとか延焼をまぬがれているのがわかる。つい先日も記事にした、リニューアル後の八島邸Click!も全焼してしまって跡形もない。でも、聖母病院の北辺道および「八島さんの前通り」Click!と、道1本隔てた吉田邸を含む第三文化村の南側、すなわち「不動谷」Click!界隈は幸運にも焼け残っていた。
 吉田博邸+アトリエは、銀座4丁目の服部時計店Click!の設計で有名な建築家・渡辺仁によって、第三文化村の400坪の敷地へ1934年(昭和9)に建設されている。1924年(大正13)に行われた第三文化村の販売は、ちょうど不在地主による東京郊外への土地投機熱が盛んなころで、とうに全区画が販売済みだったにもかかわらず、1936年(昭和11)の時点でさえあちこちに空き地が目立つほどの住宅街だった。中でも、ひときわ大きな屋根をもつ西洋館の吉田邸は、西坂から目白通りへと抜ける「八島さんの前通り」沿いでは、徳川邸Click!とともにかなり目立つ存在だったと思われる。だからこそ、地元の人々にもことさら印象深く残っているのではないだろうか。建築時には、吉田博と子息の吉田遠志がステンドグラスやインテリアなどのデザインを手がけている。


 
 吉田博の作品(特に木版画)は戦前、日本国内よりもむしろ欧米での知名度や人気のほうが高かったのかもしれない。1945年(昭和20)の秋、吉田邸へマッカーサー夫人が訪問したのは、以前の記事Click!でもご紹介しているけれど、同邸のアトリエは当時、進駐軍の芸術クラブあるいはサロンのような様相を呈していた。吉田自身も版画の実演をはじめ、将校クラブに呼ばれて美術の講演を行っている。同邸のアトリエは広く、50畳ほどの面積があったそうだ。だから、70~80人ほど人を招いて、展覧会の資金集めのためのダンスパーティなども催すことができた。また、1955年(昭和30)からしばらくの間、日本の伝統的な版画美術を紹介する観光コースとして紹介され、交通公社やはとバスのツアー客100人前後が、一度に吉田邸を訪れることもあったらしい。
 通常の画家のアトリエに比べ、吉田博アトリエがケタ外れに広いのは、版画の資材や刷りなどに必要な機材を、数多く収容するために必要なスペースだったと思われる。自身では、仕事場のことをアトリエとは呼ばずに、終生「工房」と称していたようだ。写真を見ると、吉田博が写生旅行に出かけ、世界各地から集めてきたと思われる置き物や焼き物の像を並べた飾り棚が目を惹く。アトリエで撮影された家族写真には、今回の展覧会でも展示されていた吉田博がこしらえた灰皿(制作年代不詳)も、丸テーブルの上に置かれている。以前、こちらに掲載した仕事中の吉田博をとらえた写真には、このような調度類は写っていないので、広い「工房」の四隅の一画なのだろう。
 
 
 吉田家代々の作品を観賞していると、表現の思想や方法、技法などが時代によって大きく変化・変遷しても、どこかで温もりのある和的な木版画の美や、彩りの世界が通底しているように感じられて、楽しくすごせた展覧会だった。図録には収録されていないけれど、吉田穂高が下落合時代に編纂した短歌同人誌『かぎろひ』が展示されていたのも目を惹いた。また、近代建築に興味のある方は、第三文化村に建っていた渡辺仁・設計の同邸を大きなパネルで観るチャンスだ。
 三鷹駅前の、三鷹市美術ギャラリーで開催されている「世界をめぐる吉田家4代の画家たち」展Click!は10月12日まで。期間中は、子供たちが対象の版画教室やワークショップ、講演会なども予定されている。吉田隆志様をはじめ吉田家のみなさま、ほんとうにありがとうございました。

■写真上:1934年(昭和9)に渡辺仁の設計で建築された、第三文化村の吉田博邸+アトリエ。
■写真中上:上は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した第三文化村の吉田邸。いつもの真フカンからの撮影ではなく、西側から斜めに撮られためずらしい吉田邸の姿。下左は、聖母病院沿いの道から眺めた戦後間もない吉田邸。下右は、同邸の玄関で撮影された家族の記念写真。
■写真中下:上は、アトリエの一画。中は、同じ一画で吉田博が亡くなる前年=1949年(昭和)に撮られた記念写真。大人の右から左へ吉田穂高、吉田博、吉田ふじを、吉田遠志、吉田きそ(遠志夫人)。下左は、同邸の廊下。下右は、進駐軍の「クラブ」と化していたころのアトリエ。
■写真下:上左は、1921年(大正10)制作の吉田博『ステンドグラス』。邸の窓にも、このようなステンドグラスが創作されて嵌めこまれていたのだろうか。上右は、吉田博が制作した灰皿。下左は、吉田邸の東側=「不動谷」に通う箱根土地が拓いた第三文化村の道。右手が吉田邸跡で、左手には聖母病院がある。下右は、西側の尾根筋に通う「八島さんの前通り」で左手が吉田邸跡。