五ノ坂の“お化け屋敷”Click!に住んでいた林芙美子Click!は、邸の北側に背負う目白崖線の丘のことを「ムウドンの丘」と呼んでいた。当時の下落合4丁目(現・中井2丁目)界隈で、島津家Click!や東京土地住宅Click!が開発、遅れて箱根土地が参画した西洋館の多いオシャレな住宅街で、尾崎翠Click!が見上げていた「文化村」風の街並みClick!が拡がっていた。
 金山平三Click!が先か、東京土地住宅が先かは不明だけれど、一帯の丘上に拡がる住宅地のことを「アビラ村」Click!と称していた時代があった。おそらく、1924年(大正13)ごろから昭和初期にかけてのあたりだろう。この呼称は、下落合界隈ではある程度浸透していたようで、佐伯祐三Click!の『下落合風景』シリーズClick!にも、「アビラ村の道」Click!というタイトルが見えている。「ムウドン(=ムードン:Meudon)」は、もちろんパリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町だが、「アビラ(アヴィラ:Avila)」は金山平三も滞欧中に訪れて写生Click!をした、スペイン中央部にある町名(当時は村名)だ。おそらく、「アビラ村」という呼称は地元の人々の間でつかわれたのかもしれないが、下落合の丘のことを「ムウドンの丘」と呼んだのは、林芙美子ひとりだったと思われる。
 妙正寺川のことを、林は「落合川」と呼んだりしているので、あらかじめ予備知識がないとその文章はわかりにくい。「ムウドン」について書いている、『わが住む界隈』より引用してみよう。
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 私は冗談に自分の町をムウドンの丘だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ。
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 きょうは、1933年(昭和8)に書かれたこの文章に登場する「ムウドンの丘」について、彼女はなぜこの街を親しくそう呼称していたのか?・・・というのがテーマだ。もちろん、1931年(昭和6)から翌年にかけ、『放浪記』の印税でシベリア鉄道に乗ってヨーロッパを旅行し、パリの近くにあるムードンにも出かけて実景を観ているからなのだが、では、なぜムードンへ立ち寄ったのだろうか? そして、なぜ丘上に拡がる街並みを、親しみをこめてそう呼んでいたのだろうか?
 
 わたしは以前、林芙美子がムードンへ観光に出かけ、その風景や風情がことさら気に入ったからだ・・・と、きわめて単純に考えていた。でも、ただそれだけで自身の住む街に、まったく関係のない海外の町名を“愛称”として付け、しかもエッセイにまで書いて公表したりするだろうか? そこに、ちょっとしたひっかかりをおぼえていたのだが、答えは意外なところから出てきた。1939年(昭和14)に書かれた、“黒めがねの旦那”こと石黒敬七Click!から林芙美子への「手紙」だ。この「手紙」は公開書簡というかたちで、同年に発行された女性誌『スタイル』の12月号に掲載されたものだ。
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 画家のIとは二ケ月に一度位は今迄は会つてゐました。銀座裏のSといふバーの主人公が、Iとも僕とも巴里時代の友人なのでそこで時に顔を会せるのですが主人公が一と月程前出征したので、之からはIに会ふ機会も余りありますまい。
 ムードンにゐた時はあれ程交際してゐたのに東京に帰るとサツパリ交際がなくなつて了ふなんて淋しい事ですが、Iの家はとても遠い郊外で、訪ねても行けずタマに銀座で会ふ位の事になつてゐるのですが、考へやうによつては、それだけ東京の現在にくらべて巴里の生活が互ひに呑気であつたのでしようネ。 (同誌「往復・私の手紙/林芙美子さんへ」より)
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 林芙美子は、ムードンで石黒敬七グループと親しく交流していたのだ。いや、より正確な表現をするなら、パリの薩摩治郎八Click!グループないしは藤田嗣治グループの中の一派である、柔道家・石黒敬七の道場仲間と親しく交際していたらしい。当然、石黒を通じて薩摩や藤田にも会っていると思われる。(このあたり彼女の日記に詳しいだろうか) そして、林が渡欧していたこの時期、石黒はムードンに柔道場を開いて拠点としていた。彼の周辺には、パリに滞在中の画家や作家、映画監督などがたくさん集まり独特なサロンを形成していただろう。林の返信から引用してみよう。
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 巴里のおもひでももう七八年になりますね。ムードンの石黒道場もなつかしくてなりません。一度、あの当時の人達におあひしたいものとぞんじてゐます。北京から持つてきた、私のおみやげが気に入りました由そのうち、また珍品をさしあげませう。ほめられると私は何でもさしあげたくなります。まだ、随分いろいろなものがありますからみに来て下さいまし。十一月のはじめに熱海をひきはらつてかへり、しばらく家にゐて満州の安東へ行きます。 (同誌「往復・私の手紙/石黒敬七さんへ」より)
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 林芙美子は、石黒道場を中心にムードンへ滞在している期間、よほど印象的で楽しい出来事があったのだろう。だから、ムードンの街並みや風景がことさら気に入り、たまたま風情がそのように見えなくもない下落合のモダンな住宅街を、「ムウドンの丘」と呼んでひとり楽しんでいたのではないだろうか。林は返信に、下落合にいる期間をわざわざ書いている様子からみても、石黒はちょくちょく、五ノ坂にあった「お化け屋敷」を訪ねているような気配さえする。余談だけれど、藤田嗣治の作品にも『ムードンの丘』(1957年)というのがあるようだ。
 パリ時代の楽しい想い出とともに、帰国後の東京における林芙美子と石黒敬七をはじめ、同地で交流のあった人々とを結ぶ“合言葉”が、「ムウドンの丘」だったのではないだろうか。

■写真上:旧・下落合4丁目の「ムウドンの丘」上から、新宿西口方面を眺めたところ。
■写真中上:左は、同じく「ムウドンの丘」へ通う坂道の上から落合公園の眺め。右は、四ノ坂のバッケからのちに建設された林芙美子邸(現・林芙美子記念館)の母屋を眺めたところ。
■写真中下:1939年(昭和14)に発行された『スタイル』12月号の記事より。
■写真下:1931年(昭和6)ごろ、フランスのムードンで一緒だった林芙美子(左)と石黒敬七(右)。