1941年(昭和16)の春以来だから、義母は68年ぶりに「帝大赤門」をくぐった。実父の姉だった養母の三井テルに連れられ、大伯父である宮武外骨Click!に会いに出かけたのは、銀座に就職が決まったあとのことだった。当時、東京帝大法学部地下の明治新聞雑誌文庫Click!で、相変わらず資料収集をつづけていた外骨は、デスク上で整理作業をしている最中だった。
 明治文庫の入口やドアの意匠は戦前のままで、まったく当時と変わっていないそうだ。でも、義母の記憶は実際に現場へ立つと同時に、なぜか逆に曖昧化していったようにも見えた。おそらく、養母・テルが先に立って入ったであろうドアを押し開け、文庫の受付が右手にあったエントランスに立っても、その風情や様子にどうやら義母は既視感をおぼえなかったようだ。約70年前に訪れた、しかも自身が意識的にコンタクトをとって訪問したのではなく、養母に連れられての訪問だったので、よけいに記憶が曖昧になっているのかもしれない。
 当時の外骨の様子や明治文庫の雰囲気を、わたしが義母に落ち着いた環境でインタビューしたときには、比較的細かなディテールまで憶えている様子で、さまざまな情景を話してくれたのだが、今回の訪問時における彼女の口から出た言葉は、以前に話してくれた内容とは異なる点も含まれていた。その齟齬は、外骨のデスクまわりに関することだ。以前の聞き取りでは、外骨のデスクの前や横の壁には、色とりどりの絵ハガキや写真が貼られていた・・・と語っていたのだけれど、今回の訪問時には「貼られてはいなかったと思う」に変わっていた。
 
 反対に、現場を訪れてハッキリしたこともある。宮武外骨のデスクは、1941年(昭和16)当時はどこに置かれていたのか?・・・というテーマだ。わたしの取材では、義母は天井までとどきそうな本棚や資料が山のように積まれた細い通路を歩いていくと、部屋の突き当たりの右手にデスクがあり、外骨がいて出迎えてくれたと語っていたのだが、この通路がどの程度の長さだったのか、その歩いた距離感がわからなかったのだ。本棚や山のような資料などの様子から、わたしは明治文庫の書庫の中に設置されていた外骨の作業デスクのようなものを想定していたのだけれど、実際に広い書庫の突き当たり、外骨の書棚のある位置まで義母と歩いてみると、「こんなには歩かなかった」ことがわかった。つまり、外骨が待っていた当時のデスクは書庫の中ではなく、文庫の入口からそれほど離れていない、外骨の仕事部屋にあったデスクの可能性が高い。
 明治文庫のスタッフのお話によれば、外骨が使っていた部屋は数室あったようで、この建物の地下にはエントランスから向かって正面の部屋(現・事務局)や、その左右に8畳~12畳サイズの部屋がいくつか並んでいる。その中には、盟友だった吉野作造の記念文庫となっている部屋もあるのだが、1941年(昭和16)当時に外骨が使用していた仕事部屋へ、テルと義母のふたりは通されたのではないか・・・ということになった。当時は書庫ばかりでなく、これらの部屋々々にも多くの本棚が入れられ、おもに地方から集めてきた明治期の新聞や雑誌類は、整理前のものが通路へ無造作に平積みされていたらしい。いくつかの部屋の中で、外骨のデスクが入って右隅にセッティングされていた部屋が、68年前にふたりが訪れた外骨室ということになる。
 
 前回の記事でもご紹介したけれど、当時のままの姿で保存されていた貴重な来客用のイスにも、義母は座らせていただいた。ひょっとすると、68年ぶりに腰かけたイスなのかもしれない。スプリングがのびてかなり傷んだイスなのだが、現在では専門の修理職人が少なく、クッションを直して皮を張り替えるよりは、同レベルのイスを新たに購入したほうがはるかに安上がりなのだそうだ。訪問時には、外骨が蒐集した絵ハガキや写真類にはそれほど興味を惹かれなかった様子の義母なのだが、帰宅してから「見てみたいわね」ということになった。住んでいる国立から下落合を経由せず、そのままクルマで東京大学へ直行しているので、かなり疲れていたのかもしれない。
 朝日新聞社と読売新聞社が、明治文庫に蒐集された各社新聞関連の膨大な資料を含め、記事のデータベース化を推進しているそうだ。朝日新聞の記事DB構築は、来年2010年の3月末にカットオーバー予定で、今年(2009年)の11月9日から「明治の新聞展」や「プレ『帝都物語』の時代」など、さまざまな展示会や講演会も予定Click!されている。
 
 明治期から昭和期まで、各時代の政治経済や世相を“生”のままで記録した明治新聞雑誌文庫は、まさに近代史や現代史を研究する上でのトレジャーボックスそのものだ。今後ますます、その貴重性や重要性がクローズアップされてくるのだろう。同文庫のスタッフのみなさん、ご面倒とお手数をおかけいたしました。ほんとうに、ありがとうございました。

■写真上:細い地下通路を、明治新聞雑誌文庫の書庫へと向かう義母(手前右)。
■写真中上:左は、68年ぶりに旧・加賀前田藩上屋敷の赤門(現・東大赤門)にて。右は、戦前のままの姿で残る同大法学部付属近代日本法政史センター「明治新聞雑誌文庫」入口にて。
■写真中下:ご案内いただいたスタッフの、ごていねいなお話に耳を傾ける義母。
■写真下:左は、68年前に腰かけたかもしれない外骨の部屋にあった応接用のイスに座る。右は、外骨制作の写真集『美人』に収められた新派の舞台「女の友情」ブロマイド。吉屋信子作の同舞台はこちらでもご紹介Click!しており、俳優は左から右へ英(はなぶさ)太郎、花柳章太郎、森律子。