いつも近くに存在し、いつでも出かけられる場所でもあるということで、案外ご紹介してこなかったのが日本バプテスト基督教・目白ヶ丘教会だ。気がつけば当サイトでは、教会前で店開きをする移動式青物屋さんの紹介記事Click!に、かろうじて教会堂が写っているという始末。これではいけないということで、改めて遠藤新(あらた)Click!設計の美しい目白ヶ丘教会をご紹介したい。
 わたしがこの教会に馴染み深いのは、オスガキたちの幼稚園をどこにするか?・・・ということで、目白ヶ丘教会の目白ヶ丘幼稚園と第二文化村Click!にある下落合教会Click!の下落合みどり幼稚園Click!とで、どちらがいいか最後まで迷ったからだ。目白ヶ丘教会は何度か見学させていただいているので、知らずしらず馴染んでしまったせいもある。閑静な環境だし、教会堂も美しいし、なによりも下落合教会のみどり幼稚園に比べて家からかなり近いし(半分の距離)、交通も安全・・・ということで、ずいぶん迷った記憶がある。結局、みどり幼稚園のほうがめいっぱい遊ばせてくれそうだ・・・というオスガキの感想、ただそれだけの理由で後者に決めてしまったにすぎない。
 日本へバプテスト派の牧師がやってきたのは、江戸時代の1860年(万延元)に横浜へジョナサン・ゴークル(南部バプテスト)が上陸したのが最初のようだが、このときは国内の布教に失敗している。実質のスタートは、1883年(明治16)に来日したW.H.クラークの時代かららしい。関東に根をおろすことになる北部バプテストは、1873年(明治6)ごろから活動をはじめており、横浜バプテスト神学校(のちの関東学院)を創立している。また、札幌農学校へ赴任したW.S.クラークも北部バプテストの人だった。目白ヶ丘教会には、1883年(明治16)に撮影された全国基督教大親睦会の記念写真が残されていて、キリスト教に縁の深い当時の日本人たちが写っている。

 
 
 目白ヶ丘教会は太平洋戦争の直前、1940年(昭和15)に六義園近くに設立された日本バプテスト駕篭町教会が前身であり、敗戦間近の1944年(昭和19)に陸軍の移転命令により下落合へ引っ越してきている。当初は教会堂もなく、信者は周辺住民の20人ほどだったそうだが、『新宿区の民俗(4)・落合地区篇』(新宿歴史博物館/1994年)によれば、現在ではその10倍以上の信者を獲得するにいたった。同教会が有名なのは、なによりもF.L.ライトClick!の弟子である遠藤新が設計し、しかも彼の晩年作であることにもよるのだろう。教会堂と社交場を分離した、最終的な設計図(実現案)が完成したのは1950年(昭和25)4月6日、遠藤新は翌年に死去しているのでまさに最晩年の代表作となった。ちなみに、同教会でとり行われた最初の葬儀が設計者・遠藤新自身だった。
 目白ヶ丘教会の設計図面は、確認できるものだけでも6枚が現存している。そのうち1949年(昭和24)に制作された第3次までの設計図は、鹿島建設の設計部が描き起こした図面であり、おそらく遠藤新は関与していなかったと思われる。また、引かれた設計図も、現状の教会堂と社交場とを渡り廊下でつなぎ分離した形状とは大きく異なり、“「”字型をしたシンプルな建物となっている。『日本建築学会大会学術講演梗概集』(関東/1997年9月)によれば、遠藤新が設計に登場するのは、1949年(昭和24)5月21日付けの第4次の手描き図面からだ。この時点で、初めて教会堂と社交場が明確に分離され、庭園には半円形の池が登場している。
 
 
 つづいて、第5次の設計図は現状の建物により近似してくるけれど、ここでおそらく設計者や建設業者を愕然とさせる、ふつうでは考えられない大きな問題が発生した。建設が予定されていた、目白通りに近い敷地(141.25坪)がなんらかの事情でダメになり、通りからかなり奥まった学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)のすぐ近くへと、教会の敷地自体が変更されたのだ。だが、目白通りからはやや遠く離れたとはいえ、建設予定の敷地面積(168.9坪)は逆に広くなっていた。
 当初、目白通りを歩けば望見できるようにということで、十字架や鐘楼が独特な塔状デザインで設計されていたが、近衛町Click!の奥まった敷地では樹木が伸びれば、あるいは目白通り沿いに高い建物ができればすぐに見えなくなってしまう。そこで、十字架と鐘楼の塔を道路側へ移し、できるだけ遠くからでも視認できるよう第6次の最終設計図、すなわち1950年(昭和25)4月6日付けの建設実施図では変更されている。でも、現状では背の高い住宅やマンションが増えてしまったため、目白ヶ丘教会へよほど近づかないと尖塔を確認することができなくなっている。
 
 
 以前、近代建築写真展Click!や散歩道マップClick!を制作したとき、同教会のご好意で外観や教会堂の内部をご案内いただき、あちこち撮影もさせていただいた。おそらく遠藤新の「外まで建築」という設計思想から産まれた、内庭にある半円形の池には、甲羅干しをするカメも相変わらず健在だった。記事がずいぶん遅くなってしまったのをお詫びするとともに、改めて厚くお礼を申し上げたい。

■写真上:遠藤新の最終設計では道路側へ移された、目白ヶ丘教会の十字架と鐘楼の塔。
■写真中上:上は、同教会に保存されている明治のキリスト者たち。2列目の右から4人目が新島襄で、その左隣りが内村鑑三。中と下は、同教会堂の外観。中右は、池で甲羅干しをするカメ。
■写真中下:同教会堂の内観。陽射しを多く取り入れる設計で、薄暗い礼拝堂のイメージはない。
■写真下:目白ヶ丘教会の設計図および外観図の変遷。上左はもっとも早い1948年(昭和23)3月25日付けの、上右は1949年(昭和24)4月25日付けの、下左は1949年(昭和24)6月12日付けの、下右は1950年(昭和25)4月6日付けの各図面。このうち、上の図面2枚が鹿島建設設計部の作図、下の2枚が遠藤新の設計で、遠藤が設計に登場したのは1949年(昭和24)5月ごろのことと思われる。いずれも、『日本建築学会大会学術講演梗概集』(関東/1997年9月)より。