中村彝Click!に誘われて、福島で短期教師をしていた曾宮一念Click!は、1920年(大正9)に下落合へとやってきた。彼は中村彝が見つけておいてくれた、下落合544番地の借家へさっそく住むことになる。下落合544番地は目白通りのすぐ北側だけれど、彝アトリエへはほぼ一直線の南下で、歩いて5分前後の距離だ。彝は曾宮に、身近にいてほしかったのだろう。
 ところが、下落合544番地の曾宮宅に、引っ越し早々ドロボーが入った。盗るものがなかったので、ほとんど被害はなかったようなのだが、曾宮は気味(きび)が悪く感じたものか、すぐに大久保駅近くの柏木Click!へと引っ越している可能性がある。★ 1920年(大正9)の秋口、中村彝が『エロシェンコ氏の像』を描いているとき、曾宮は柏木の借家から彝アトリエへ見物に来ようとしており、明らかに下落合544番地には住んでいなかった。同年から翌1921年(大正10)にかけ、曾宮は下落合の借地を探して、諏訪谷Click!に面した下落合623番地に苦労してアトリエを建設している。
★下落合にアトリエが竣工するまで、淀橋町柏木128番地へ転居Click!している。
 自宅兼アトリエを建設してから10年ほどがたち、最初の妻・綾子と離婚して息子の俊一とふたり暮らしになった翌年、1931年(昭和6)秋に曾宮一念はアトリエの南東側に小部屋の増築を計画している。自身で「静臥小屋」とも「寝小屋」とも名づけているこの部屋は、仕事をしないときの曾宮の居間あるいは寝室のような役割りを果たすことになる。
 静岡の江崎晴城様Click!より、曾宮が当時フリーハンドで描いた増築部屋の平面図、および立面図(イラスト)をお送りいただいた。それを見ると、曾宮アトリエClick!の広さが彝アトリエClick!と同様にほぼ20畳ほどのサイズであり、増築部屋は変形6畳ぐらいの広さだったのがわかる。寸法なども具体的に記載されており、この簡易設計図を近所の大工に見せて増築を依頼しているのだろう。
 
 立面図を見ると、アトリエや母屋と同様に下見板張りの外壁を想定しており、屋根は関東大震災Click!を経験しているせいか瓦は載せず、スレート葺きを指定しているのだろう。「静臥小屋」の入口ドアは、母屋側の西に向いており、南面と東面には大きなガラス窓やガラス戸が計画されている。下落合を散歩する画家たちが、塀のない曾宮邸の敷地へ入りこみ、この大きな窓越しに覗きこんでは曾宮と世間話をしており、必然的に周辺に住む画家仲間の情報や動向が曾宮のもとへ集中してくるようになった。曾宮自身も出歩いて、さまざまな画家たちのもとを訪れているけれど、曾宮のことを下落合に住んだ画家たちの「ハブ的な存在」と書いたのは、この小屋の窓が周辺に住む画家たちの情報窓口になっていたせいだ。
 当時、曾宮は緑内障の初期症状と思われる偏頭痛や、特に苦手な夏季には体調を崩しがちで、症状が表れると制作を休んで「静臥」している。調子の悪い夏に、富士見高原療養所などへ入所していたのは、暑い東京を離れた「避暑」の性格が強かったのではないだろうか? ちなみに、長野県の富士見高原療養所は八ヶ岳の近く、くしくも諏訪郡の“落合村”に建っていた。ここで、曾宮は小説家・堀辰雄と知り合っており、その交流は戦後までずっとつづくことになる。堀辰雄は、中野重治Click!や壺井繁治Click!たちといっしょにプロレタリア文学の同人誌『驢馬』を刊行しており、落合地域へも頻繁に足を踏み入れていただろう。堀辰雄が1953年(昭和28)に死去したあとも、曾宮家とは家族ぐるみで親しくしており、堀の生前には曾宮アトリエにも立ち寄っていた可能性が高い。

 
 2枚の設計図が描かれたのは、1931年(昭和6)の秋とみられ、立面図(イラスト)の左横には「十月二十四日」の日付とともに、「晴」と「爽」の文字が書きこまれている。暑気が完全に去って、よほど気持ちがよかったのだろう、かねてより計画していた増築の具体化に取りかかったにちがいない。「静臥小屋」は同年の暮れか、あるいは翌年の初めに完成したと思われる。1936年(昭和11)にやや西寄り上空から撮影された空中写真を見ると、南東側に突き出たスレートと思われる屋根の光っているのが見えており、1938年(昭和13)の「火保図」にも増築部が描かれている。
 これら空中写真が撮られ、「火保図」が描かれる少し前から、曾宮一念は家内で「征伐」戦をつづけていた。家の柱や屋台骨を食いつくす、シロアリとの闘いだ。1938年(昭和13)に出版された、『いはの群』(座右寶刊行会)から引用してみよう。
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 私の家の人間的屋台骨も危かしくなつたが、ホントの家の方も地ならしをせずに建てた為め、雨水がはけず、米松の台材は昭和になる頃には早く朽ちて、いつ倒れるやも知れぬ危さになつて来た。これが白蟻の仕業で、木材をへがすと面皮の脂粒のやうな小虫がぎつしりつまつて木を食つて僅かに動いてゐる。(中略)/静臥小屋の土台も蟻に食はれたがこゝに臥てゐて知つたことは、毎年六月初旬に蟻が室の一隅の柱を天井へと往復することである。そして上るものは皆卵を一つづゝくはへている。淡褐色の薄膜に包まれてゐるから蛹かも知れない。(同書「蟻退治」より)
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 結局、シロアリに負けて家全体の土台を造りなおすことになり、仮住まいのために第三文化村Click!の目白会館文化アパートClick!へ、一時期引っ越すことになるのだが・・・。

 
 余談だけれど、曾宮が「静臥小屋」で1936年(昭和11)1月に作詩した「いかり」という作品がある。北西隣りの川村家Click!を想い出していたのかもしれないが、好きな作品なので引用しよう。
  いかり
 いかりは大きな力
 これをくれた人に
 投げ返してしまふのは
 惜しくなつた、
 傷ついたこのからだに
 折角湧いて来たのだ
 呑み込んで
 仕事の燃料にしてしまへ、

■写真上:1931年(昭和6)10月24日に描かれた、曾宮自筆による増築イメージイラスト。
■写真中上:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」(左)と、1936年(昭和11)の空中写真(右)にみる、1920年(大正9)に曾宮が住んでいた下落合544番地の借家と彝アトリエの位置関係。
■写真中下:上は、曽宮一念邸の平面図。下左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる曾宮アトリエ。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみるアトリエ南東の増築部。
■写真下:上は、曾宮アトリエの「静臥小屋」立面図。下左は、1916年(大正5)に東京美術学校の卒制で描かれた曽宮一念『自画像』。下右は、画塾「どんたくの会」へ通って来ていた生徒のひとり、下落合の牛乳屋を描いた1935年(昭和10)の曾宮マンガClick!『牛乳屋のオッサン』。