ときたま土ぼこりが舞う大震災Click!前の下落合に、大きな乳母車を押しながら歩く肥った女中がいた。乳母車には土ぼこりが入らないよう、薄い布がかけられている。ときどき、目白通りClick!(当時は「練馬街道」「高田大通り」とも)のまばらな商店街に立ち寄っては、店先へ乳母車を置いたまま買い物をし、また歩き出しては下落合の住宅街をグルグルあてどなくめぐり歩く。乳母車の中で眠っている赤ん坊は、女の子が1922年(大正11)2月21日に生まれの佐伯彌智子Click!、男の子が1921年(大正10)3月21日に生まれた、ほぼ1歳ちがいの曾宮俊一(としいち)だ。大きな乳母車を軽々とあやつる女性は、アトリエでモデルにもなったことがある佐伯家の女中だった。
 当時、曾宮一念Click!の妻は病気がちで入退院を繰り返しており、赤ん坊の世話をすることができなかった。また、佐伯祐三Click!の米子夫人は脚が不自由なため、赤ん坊の面倒や買い物を女中にまかせていた。妻の入院と子供の世話とに追われ、まったく仕事ができなくなってしまった曾宮に、その窮状を見かねたのだろう、子供を預かると提案したのは佐伯夫妻だっだ。江崎晴城様Click!からお送りいただいた、1984年(昭和54)11月9日の、曾宮一念の講演記録から引用してみよう。
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 (前略)体のえらい立派な女中さんがいましてね、名前は忘れましたがね。それが佐伯の一人娘の彌智子さん、やっぱりちょうどうちの息子と同じ年くらいのまだちょっと歩けるくらいの赤ちゃん。その二人を乳母車に乗せて、買い物旁々、歩いてくれるんです。僕はそれで大変助かりましてね。うちの息子は行くの嫌だなんて言ったこともありますけど、とにかく追い出しちゃうと、ウトウトと乳母車の中で二人とも居眠りしちゃう。そうすると、一日、その体の大きな女中がお守りしながらいてくれるんです。その間、僕は絵を描いていられたんで、大変ありがたかった。僕も不自由な生活ですしね。そうして夜、迎えに行って、佐伯の所に行くと、晩飯を一緒によく食った。それで佐伯はまあ毎日のように、牛肉のすき焼きなんですよ。こっちはちょっと飽きちゃったけどね。それでもまあ、向こうへ行けば僕は自炊する必要もないし、それで、毎日のようにすき焼きを二人でね。
                               (曾宮一念・講演「佐伯祐三について」より)
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 乳母車を押す大柄な女中は、林泉園Click!の尾根沿いをゆっくりと歩いていき、雨の心配がなければ、ときに近衛町の丘上や乗合自動車Click!が走りはじめた目白橋から、金久保沢の駅舎Click!や旧清戸道の踏み切りを見下ろし、線路を走る電車や汽車をふたりに見せていたのかもしれない。
★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 
 佐伯彌智子は1928年(昭和3)8月末、父親のあとを追うようにわずか6歳でパリに病没したが、曾宮俊一はその後も元気で成長していった。物心つくころから父親の写生に同行するようになり、常に画道具と親しんだ少年時代をすごしている。やがて、父親の母校である東京美術学校の建築科へ入学し、同時に本格的な絵の勉強をすることになる。だが時代は、“絵の勉強”など許されない状況を迎えていた。1943年(昭和18)11月、曾宮俊一は東京美術学校を繰り上げ卒業させられると、間をおかずすぐに入営している。そして、1945年(昭和20)3月25日、中国の湖北省光化県老河口で行われた戦闘により戦死。まだ、24歳になったばかりだった。
 長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」には、曾宮俊一の作品が2点収蔵されている。そのうちの1点が、冒頭に掲載した『風景』だ。制作年は不詳だが、描かれている西洋館群から、最初わたしは下落合の風景(特に学校校舎)を疑った。でも、右手に描かれているレンガ造りの建物が、おもに大正期の西洋館が建ち並んでいた下落合のハイカラな情景にしては、やや重厚すぎて古めかしく明治建築の匂いがする。ほどなく、東京芸術大学を卒業された方から、「これは東京美術学校の校舎で、現存してますよ」とのご教示をいただいた。芸大のキャンパスを確認すると、どうやら赤レンガ2号館の一部を描いたようで、制作時期は1941年(昭和16)前後だろうか。
 
 曾宮一念は、戦地の息子へ向けて繰り返し、返事がなくても手紙やハガキを書きつづけて送っていたようだ。でも、部隊は常に中国各地を「転戦」するし、郵便は軍部により事前に検閲されているので、それがどこまで息子の手元にとどいたかは不明なのだが・・・。1999年(平成11)に出版された、窪島誠一郎・編の『無言館を訪ねて』(講談社)の冒頭には、同館の窪島館主が書いた「あなたを知らない」と題する詩が掲載されている。
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 遠い見知らぬ異国で死んだ 画学生よ
 私はあなたを知らない
 知っているのは あなたが遺したたった一枚の絵だ
 その絵に刻まれた かけがえのないあなたの生命の時間だけだ
                             (窪島誠一郎「あなたを知らない」<部分>より)
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 戦後は、ほとんど息子について語ることのなかった曾宮一念だが、90歳をすぎたころ「あのバカな戦争で死んで無念だったでしょう」「くやしい」と、周囲へ漏らしていた。自身で「へなぶり」と名づけた短歌に、わずかだが曾宮俊一のことを詠じた歌がある。
  ひとり子の戦死の野辺は花盛り 早くこいとの夢をたびたび
  海渡り散りて帰らぬ子の齢(よわい) 思い出いだきいが栗を割る
 
 佐伯家の大柄な女中は、下落合に通う坂道の途中でときどき立ち止まると、乳母車を身体で支えながら首筋の汗を拭いた。こもれ陽の色が黄から橙へ染まりはじめるころ、乳母車は青柳ヶ原Click!の北にある佐伯アトリエの方角へ、ゆっくりともどりはじめる。
 道ですれ違う仕事帰りの人たちが、ときどき乳母車の中を覗きこんでは微笑むが、山手線を走る電車や汽車の音と、近衛町で進む造成工事Click!の騒音とですっかり疲れてしまったのか、ふたりはすやすやと眠ったまま気づきもしない。

■写真上:おそらく1941年(昭和16)ごろ制作の、曾宮俊一『風景』(東京美術学校)。
■写真中上:左は1928年(昭和3)にモランで撮影された佐伯彌智子で、右は10代後半とみられる曾宮俊一。佐伯家の女中が手押す乳母車の中で眠りながら、下落合で育ったふたりだ。
■写真中下:左は、制作年不詳の曾宮俊一『風景』。右は、いつも曾宮一念の写生に同行していた曾宮俊一。周囲の様子から、信州の高原に出かけたときに撮られたものだろうか。
■写真下:左は、1999年(平成11)に出版された窪島誠一郎・編『無言館を訪ねて』(講談社)。右は、東京美術学校(現・東京芸術大学)の赤レンガ2号館。