1920年(大正9)に制作された曾宮一念Click!の『庭先』には、中村彝Click!のアトリエ南にあった居間へと通じる、両開きのドア前に設置された階段に腰かける、夕陽をあびた少女が描かれている。この少女が、いったい誰なのかが今日のテーマだ。
 服装の様子や肢体からして、どう見ても10代半ばのように見えるのだけれど、まさか「女書生募集」の広告にヴァイオリンを抱えてやってきた太田たきでも、洲崎義郎Click!が柏崎から再三連れてきては1ヶ月ほどでさっさと帰ってしまう土田トウでも、また前年にラス・ビハリ・ボースと結婚してしまった新宿中村屋の相馬俊子Click!でもない。ましてや、「ばあやさん」と呼ばれるとご立腹だったらしい、すっごく若づくりした岡崎キイClick!おばさんでもなさそうだ。(爆!)
 最初は、上野のモデル事務所Click!から彝アトリエへとやってきたモデルのひとりかとも思ったけれど、曾宮一念が描いているところをみると、どうやらそうでもなさそうだ。当時の曾宮は、モデル料が払えるほど裕福ではなかったし、どう頼みこんでも無償でモデルになってなどくれそうもない。では、中村彝のアトリエへ親しく遊びに来られる位置にいる少女で、なおかつ曾宮のモデルに気やすくなっているところをみると、ある程度彼とも顔見知りの間柄だったようにも思える、この少女は、いったい誰だろうか? ちなみに、曾宮一念の連れ合いである綾子夫人は、写真Click!も残っているがこのような雰囲気の女性ではないし、当時はすでに俊一Click!を妊娠していたと思われる。
 もうひとつ、重要な課題として彼女が着ている洋服のテーマがある。1920年(大正9)当時、このような格好をして下落合を歩いていたら(いや東京のあちこちでさえ)、おそらく街じゅうの注目のマトになっただろう。モボ・モガが銀座を闊歩した大正末から昭和初期ではない、大正中期における装いだ。しかも、1922年(大正11)に目白文化村Click!が造成された時点でさえ、洋装の女性が下落合を歩いただけで近所じゅうのウワサClick!になったほどだ。つまり、この大正9年の超ハイカラガールは、地元・下落合に住んでいる少女ではなく、もっと繁華な街からやってきた少女のような雰囲気が濃厚なのだ。しかも、かなりのおカネ持ちの娘でなければ、このような装いはできない。
 
 中村彝の周囲で、おカネ持ちといえば今村繁三Click!がいるけれど、彼の娘と交流があったとは彝自身の記録にも、また彼のもとへ支援金をとどけていた中村春二Click!の記録にも見あたらない。では、ほかに彝の周囲でおカネに余裕のある家に生まれ、当時は非常に高価だったと思われるオーダーメイドの最先端コスチュームを身にまとえる、そして彝アトリエへ出入していた少女はいるだろうか? また同時に、娘にこのような格好をさせても抵抗感をおぼえないほど、家庭環境がデモクラティックでリベラルな家、特に母親が新しもの好きで既存の「常識」や「世間体」にとらわれないなど、進んだ意識を持っていた家庭・・・。そう消去法的に考えてくると、中村彝の周辺でたった1軒だけ、それらしい家庭が残ることになる。ほかならない、新宿中村屋の相馬家だ。
 この少女は、相馬黒光Click!の娘ではないだろうか? もちろん、“おさんどん”タイプの姉・俊子ではない、1913年(大正2)に中村彝のモデルにもなっている妹・千香Click!のほうだ。そして、彝アトリエの壁には彼が死去するまで、曾宮一念の記録によれば千香をモデルにした『帽子を被る少女』は架けられていた。相馬千香は、黒光に連れられて何度か彝を見舞いにアトリエを訪れている。そのことは、黒光はどこにも書いていないようだけれど、彝アトリエにいた曾宮たちが目撃している。相馬俊子との結婚話をめぐる確執から、中村彝と新宿中村屋との間で断絶状態がつづいたあと、初めて相馬黒光が下落合のアトリエを訪れたのは『庭先』の前年、1919年(大正8)12月13日の夜だ。このとき、黒光はかつて彝が見せた過剰な反応を警戒してか、あるいは最初から緊張感をやわらげ和んだ空気を醸成するためにか、15歳になっていた二女の千香を同行していた。
 
 何度か母親に連れられて訪問していた相馬千香は、ときに母親にはナイショで彝アトリエを訪れていたのではないか? 信州育ちで垢抜けず、もの静かな姉の俊子とは異なり、東京育ちの千香はおそらく正反対の雰囲気を漂わせていただろう。曾宮も『東京回顧』の中で、黒光に連れられて彝アトリエを訪れる千香を「美しい」と書いているところをみると、彝好みではないおきゃんな女の子に育っていたにちがいない。都会風の洗練された女性がニガ手だった彝は、そんな彼女を見てどう思っただろうか? 成長してからの千香を描いていないところをみると、やはり“ブンドウ(小豆の一種)色”の頬をした“おさんどん”型の姉のほうがいい・・・と感じて、制作意欲が湧かなかったものか。
 1920年(大正9)のある日、曾宮一念が散歩の途中で彝アトリエをのぞいてみると、また相馬千香が遊びに来ている。彼は持参したスケッチブックを開くと、「そこの扉の前で、モデルになってくれよ」といって描きはじめた。「お母さんには、絶対ナイショにね」と千香は曾宮に念を押すと、ドアの前の階段に腰かけた。千香のたびたびの来訪に、居間のベッドに横たわる中村彝は、困り顔をしていただろうか。曾宮は千香との約束をちゃんと守り、この少女が誰であるのか、その後どこにも書き残してはいないようだ。1904年(明治37)生まれの相馬千香は、彝の『帽子を被る少女』のときは8歳、曾宮の『庭先』Click!が描かれたときは、すでに16歳の娘盛りを迎えていた。
 
 ・・・と、曾宮が描く『庭先』の少女をめぐり、想像が果てしなくふくらむのだけれど、彼女が彝アトリエのすぐ近くに住む、新しもの好きでハイカラ・コスプレ大好きな、「ね~え、ヲジサン、あたしをそろそろモデルにしてってばさ~ぁ」と毎日通ってくる、下落合でも評判の不良少女だったりしたら、中村彝は「ま、また来たか・・・」と弱り果てていたにちがいない。(爆!)

■写真上:1920年(大正9)に制作された、曾宮一念『庭先』の少女クローズアップ。
■写真中上:左は、中村彝アトリエの南に面した居間に設置された、観音開きドア下の階段があったあたりの現状。右は、曾宮一念が彝アトリエの庭西側から描いた『庭先』の全体画面。
■写真中下:左は、新宿中村屋で家族とともに撮影された明治末ごろの相馬千香。右は、1912年(明治45)に制作された中村彝『帽子を被る少女』。
■写真下:“ブンドウ色”の頬をしたモデルたち。左は、相馬俊子がモデルの1914年(大正3)ごろ描かれた中村彝『少女』(部分)。右は、1912年(明治45)ごろ制作された同『少女の像』(部分)。