1922年(大正11)現在、目白通り近くの下落合645番地に住んでいた鶴田吾郎Click!は、自宅にアトリエを持っていなかった。旅行が多かった鶴田は、その必要性をあまり感じなかったのかもしれない。だから、制作上どうしても必要になると、近くに住む親友の曾宮一念Click!や中村彝Click!の画室を借りていた。鶴田吾郎がアトリエ付きの自宅Click!を、薬王院のすぐ近く下落合804番地に建てて引っ越すのは関東大震災のすぐあと、1923年(大正12)の暮れか翌年の初めだ。
 鶴田吾郎は、曾宮一念のアトリエClick!で都合3点の作品を残している。ひとつは、1921年(大正10)に曾宮アトリエの中から、いままさにドアを開けて下落合界隈の写生に出ていこうとする曾宮一念をとらえた『初秋』Click!。もうひとつが、翌1922年(大正11)に曾宮アトリエの内部で制作された曾宮自身の肖像画『余が見たる曾宮君』Click!だ。両作が描かれた様子を、『画家は廃業』(静岡新聞社/1992年)に収録された曾宮一念の証言から引用してみよう。(カッコ内は引用者の註)
  ●
 中村(彝)と鶴田(吾郎)は同輩的な年でもあるし、本当に当時から友達同士でした。私の家の近所にいたこともあってよく遊びにきました。鶴田は、当時アトリエを持っていませんでしたから、私のアトリエによく来ていました。『余の見たる曽宮君』という絵は、玄関もなにもない私の画室に私が立っているものです。出品するときに鶴田は、/「いきなり、曽宮君というのはおかしいから、『世の見たる曽宮君』っていう論文のような題にしたよ」と言っていました。その絵は第四回帝展に入選しております。/もう一つ私を描いたものがあります。『初秋』という絵です。それは『余の見たる曽宮君』を描いた前年の大正十年のものです。立派な服装に見えますが、そうではありません。絵だから立派に描いてあるのです。太田という洋服屋が、木綿の生地で背広とズボンを七円で作ってくれたのです。その時は、できたばかりの服だったからピンとしていたはずですが。 (同書「一期一会」より)
  ●
 
 残りのもう一作が、下落合623番地の曾宮邸敷地内にあった井戸の前へ、植木業を営む隣家の小さな娘を立たせて描いた、1922年(大正11)制作の鶴田吾郎『農家の子』だ。(冒頭の画像) 同年に開催された平和記念東京博覧会の美術館に、『農家の子』は出品されている。この井戸は、曾宮邸の北西にあった台所の近くに掘られたもので、北隣りである青木家との敷地境界近くに位置していた。鶴田がモデルにした女の子は、中村彝のモデルにもなった辻潤の元・連れ合いClick!のように、「これは、わたしを描いたものなんですよ」と名乗り出にくかったにちがいない。なぜなら、曾宮一念はのちにこんなことを言っているからだ。
  ●
 鶴田は、私の家の隣にあった植木屋の一番下の、ちっともかわいげのない小さな子も描いています。『農家の子』という題です。家の台所と井戸の続いていたところに、強引に突っ立たせて描いてしました。だから鶴田は、私の家関係で三つの絵を描いているわけです。 (同上)
  ●
 『農家の子』の娘の周囲や背景に見えている樹木は、青木家の庭いっぱいに植えられた商売用の植木が描かれているのだろう。女の子の両側に見える小さな木は、ヒノキかスギの苗に見える。
 1925年(大正14)に作成された「大日本職業別明細図」、あるいは翌1926年(大正15)制作の「下落合事情明細図」などを参照すると、落合地域で多くの植木農園あるいは植木商を発見することができる。大正の中期、特に関東大震災後は郊外の「文化住宅」地として急速に拓けつつあった落合界隈では、造庭や生け垣、道路の並木づくりのために植木が大量に必要だったろう。一帯の古くからある農家では、いっせいに田畑の一部を植木農園に改造したものと思われる。また、新鮮な鶏卵の需用に応えるため、養鶏場Click!を開設した農家も少なくなかったにちがいない。
 
 曾宮は1920年(大正9)に、予算ギリギリで家を建てることになるのだが、もちろん敷地に垣根をめぐらす費用などなかった。でも、地主かまたは隣家の植木屋かは不明だが、強引に「檜垣」を造らされている。その費用を捻出するために、曾宮は借金でもしたのではないだろうか。そのときの情景を、1938年(昭和13)に座右寶刊行会から出版された『いはの群』から引用してみよう。
  ●
 さて家を建てることになつたが履脱ぎ三尺の土間もつけられない始末なので、庭の周囲の垣根の予算などあらう筈がなく、丸太に針金の手製で間に合はす積りでゐるとこれも東南に四十間を立派な檜垣を作らされてしまつた。 (同書「庭のいざこざ抄一」より)
  ●
 曾宮が「檜垣」と書いているのは、いわゆる日本庭園などに多い文字どおりの檜垣(ひがき)ではなく、のちの文中にも出てくるようにヒノキの苗木を植え並べた「檜垣」(ヒノキの生け垣)だったようにも思える。このとき、北隣りの植木業を営んでいた青木家による、強引な生け垣造りに腹を立てていた曾宮は、のちに同家の末娘を描いた鶴田の『農家の子』について、「ちっともかわいげのない小さな子」などと腹いせに言っているのではないか。彼が『いはの群』を執筆したころ、もともと農家だったと思われる青木家はどこかへ引っ越してしまい、北隣りからはいなくなっていた。曾宮が庭木を諏訪谷からタダで調達してきたり、中村彝や佐伯祐三Click!の庭からもらってきたりと、隣家からあまり買ってあげなかったせいで、青木家側でもあまり快く思っていなかったのかもしれない。
 
 鶴田吾郎が頻繁に訪れて利用した、曾宮一念のアトリエについて調べていると、建築当初の中村彝アトリエClick!の造りによく似ていることがわかる。東の壁面に出入口の付いた、三間×三間半の画室が邸の東側にあり、西に向かって伸びるようにふたつの部屋やトイレ、台所が並んで配置されている。内部ばかりでなく、『夕日の路』に見える赤い尖がり屋根の意匠も、彝アトリエに非常によく似ているのだ。ひょっとすると、曾宮一念は中村彝から設計者か建築業者を紹介され、ほとんど同じようなデザインでアトリエを建てているのではないか?

■写真上:1922年(大正11)に曾宮邸の北西側、井戸の近くで描かれた鶴田吾郎の『農家の子』。
■写真中上:左は、1921年(大正10)に曾宮アトリエで制作された鶴田吾郎『初秋』。右は、1922年(大正11)に制作され帝展に入選している鶴田吾郎『余が見たる曾宮君』。
■写真中下:左は、「軍人のようになってしまった」南方派遣画家(1942年)の鶴田吾郎(手前左)で、右隣りは藤田嗣治。右は、1938年(昭和13)に庭で咲いたケシを描いた曾宮一念『けし畑』。
■写真下:左は、佐伯祐三の庭から分けてもらったアケビの実を描いた曾宮一念『あけび』(1938年)。右は、練馬区小竹町あたりで撮影した地元の旧農家が営んでいると思われる植木農園。