当サイトでは、これまで目白通り=清戸道(きよとみち)として書いた記事が多いが、少なくとも目白駅Click!の両側、東西各150mほどにわたる目白通りは、旧・清戸道の上に敷設されたものではなく、明治期に造られたまったく新しい道路の可能性が高い。「明治中期には目白通りも目白橋も存在せず、それらは清戸道とは別のまったく新しい道路だ」と証言されている地元の方々がいらっしゃって、実はずっと気になっていたテーマのひとつなのだ。目白通りが造られた当初、地元では桜並木がつづく通りのことを「高田大通り」とも「練馬街道」とも呼称していた。
 本題に入る前に、もうひとつ気になる課題について触れてみたい。清戸道は、練馬Click!を経由して綾瀬の清戸(きよと)へと通じている道だから、江戸期からそう呼ばれてきたとされているわけだけれど、清戸は果たしてもともと「きよと」と発音されていたのだろうか?・・・というのが、もうひとつの気になるテーマだ。漢字が当てはめられる以前、地名が音で呼ばれていた時代の発音は、「せいと」ではなかったかと想像してしまうのだ。地名へ漢字がふられるようになったあと、後世に「せいと」が「きよと」と変節してしまった可能性はないだろうか。
★その後、大正中期ごろまで「せいどどう」と呼ばれていたことが判明Click!している。
 江戸東京地方には、由来が知れないほど古くから、左義長(さぎちょう)と呼ばれる正月の火祭りが各地で行われている。江戸時代には防火の観点から、市街地では火祭りが禁止されていた時期もあった。民俗学では、発祥地は古代の出雲地方ではないかとされているが、詳細は不明だ。東京の日本橋方言では、左義長のことを「どんど焼き」と呼んでいる。また、具を盛り上げて焼くお好み焼きのことも、左義長の風情に似ていることから「どんど焼き」と呼ばれていた。さらに、左義長のことを「せいと払い」(下町方言では「せいとばれえ」)と呼ぶ地域もある。この「せいと」の火祭りについて、わたしは湘南に住んでいた子供時代から馴染んできた。国の重要無形民俗文化財にも指定されている、大磯Click!の左義長Click!=「せいとばれえ」が身近だったからだ。
 「せいと」は仮名表記のままで、漢字が当てはめられているケースが少なく、地域によっては「セエト」あるいは「セート」というような転訛が見られる。左義長は、1年間にわたり守護してくれた護符、注連縄、御札、破魔矢、用済みになった門松や松飾りなどの“お守り”を焼いて、神の国へ送り返すという古くからの火祭り神事だ。また、その燃えあがる炎で餅や団子を焼いて食べると、再び1年間無病息災でいられるという謂れも付随している。原日本語(アイヌ語に継承)では、セ・イット(se-itto)で「背負う・日」(背負わせる日)で、役目を終えた注連縄や松飾り、神符などを積み上げた大きな山を、神々の国へ神に背負って帰ってもらう、文字どおり“厄介払い”に通じる意味合いを含んでいる。綾瀬の清戸地域にも、古くから伝わる左義長の習慣はないだろうか?

 さて、山手線の目白駅が金久保沢の谷間にあったとき、清戸道はいまだはっきりとした痕跡を残していた。それは、西の下落合側ばかりでなく東の学習院側でも、清戸道の道筋はいまだ顕著だ。下落合側から旧道である清戸道たどると、目白通り(高田大通り)の現在のリッチモンドホテルあたり(昔の呼称では駅から「三地先」)から南へ分岐し、崖の斜面を斜めにゆるゆると下っていくと、やがて金久保沢の目白駅の北側(目白橋の南の下)にあった山手線の踏み切りにさしかかり、それを渡り終えると今度は道が急激な上り坂となって、現在の学習院Click!キャンパスの敷地内へとつづいていく。いつか、長崎アトリエ村Click!の資料館Click!でお見せいただいた、1909年(明治42)制作の政府陸地測量部による「早稲田1万分の1地形図」(1925年改訂版原版)の、非常にクリアな画像データをいただいたので確認してみると、やはり清戸道の残滓がはっきりと描かれている。
 では、学習院側の資料ではどうだろうか? 学習院における清戸道のとらえ方は、江戸時代後期の1772年(明和9)に作成された「高田村雑司谷村絵図」をベースにしている。測量にもとづく正確な地形図とは異なり、道幅も距離感もデフォルメされたアバウトな絵図に記載の目標物に合わせて、現在の学習院キャンパスを想定して描き入れているため、清戸道はキャンバスの中央からやや北寄りの位置を東西に横切っていたように解釈されている。でも、実際にはもっと北寄りの位置ではないかと思われるのだ。また、早稲田1万分の1地形図では、旧・清戸道は学習院正門の手前で目白通り(高田大通り)と合流しているが、これは学習院が建設される際の道筋修正の可能性があり(目白駅で下車した学生たちの登校通路化)、本来はキャンパスを東西に横切って、地形的に街道筋を想定するなら現在の目白警察署あたりまでつづいていたのかもしれない。

 この道が消滅したのは、学習院側では目白駅が橋上駅化され、目白橋の下にあった踏み切りが廃止となり、学習院馬場Click!の移転と目白通りの拡幅・再整備が行われた大正後期ごろだと思われるが、下落合側に残る清戸道の痕跡は昭和に入ってからもしばらく残っていた。この道を廃止し、もう少し南へ東西を結ぶ道路(現在の近衛町の北側から豊坂稲荷下の金久保沢Click!へと抜ける道路)の建設が、高田町議会で議決されたのは、ようやく1930年(昭和5)になってからのことだ。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』から、道路整備の議決の模様を引用してみよう。
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 金久保沢千百十四番地先より千百二十番地の三地先に至る延長九十五間余の道路を廃して、千百十二番地の一地先より下落合新田四百五十番地の二地先に至る延長百十七間余の三間幅道路を新設し、路線の位置変更を議決した。
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 書かれている「(金久保沢)千百十二番地の一地先」とは、現在の豊坂稲荷下にあるコンビニ「am/pm」の敷地前に相当する。旧・目白駅の駅前に近い位置だ。この時点では「議決」と書かれているので、1933年(昭和8)現在では工事はまだ行われていなかったか、あるいは工事中だったと思われる。1935年(昭和10)に作成された高田町市街図では、旧・清戸道と新たな南側の東西道とが双方描かれており、5年後の同図から旧・清戸道が消えているので、おそらくこの5年間のどこかで清戸道の残滓は廃止されたのだろう。旧・清戸道は、下落合側では目白通り南側の歩道の下や、あるいはリッチモンドホテルやみずほ銀行のビルの下に隠れてしまった。こう考えてくると、目白駅近くに昔からお住まいだった方々が、「明治中期には目白通りも目白橋も存在せず、それらは清戸道とは別のまったく新しい道路だ」と証言された意味合いが理解できてくる。
 
 最後に、もうひとつ余談ついでに、雑司ヶ谷の鬼子母神Click!が出現した現在の雑司ヶ谷あるいは目白界隈の一部の地名も、当てはめられた漢字は異なるが、やはり「清土」と呼ばれていた。こちらは「きよと」ではなく、古い資料では「せいと」とルビがふられている。雑司ヶ谷鬼子母神とその周辺域で、正月の神事・左義長がいまに伝わっているところはあるだろうか? このような東京の火祭りは、住宅地化が進むとともに火事への懸念から、廃れてしまった地域も多い。

■写真上:旧・清戸道と山手線が交差して、大正後期まで踏み切りがあったあたりの現状。
■写真中上:1909年(明治42)制作の「早稲田1/10,000地形図」(1925年改訂版原版)。
■写真中下:1772年(明和9)に作成された「高田村雑司谷村絵図」をベースに作られた、学習院大学の清戸道が横切るキャンパス資料。緑に塗られている部分が、現在の学習院大学敷地。
■写真下:左は、1907年(明治40)に作成された「逓信地図」にみる目白駅周辺。右は、1930年(昭和5)に計画が議決され清戸道に並行して南側に造成された新三間道路。