佐伯祐三Click!が1926年(大正15)ごろに描いた『堂(絵馬堂)』で、ひとつ大事な建物を忘れていた。佐伯が1926年(大正15)秋の9月21日Click!と同年から翌年にかけてのClick!に描いている、『下落合風景』Click!の1作「洗濯物のある風景」の描画ポイント(下落合2157番地)からほど近い、上高田の桜ヶ池不動堂だ。おそらく、イーゼルを立てた妙正寺川の土手上から広い谷間をはさみ、堂は佐伯の背後に見えていただろう。桜ヶ池不動尊は、上高田氷川明神社のある崖線と同じ斜面に建っているので、大正末の当時は敷設が済んだ西武電鉄の線路土手や、谷底に拡がる田畑の向こうに、宝珠の載った不動堂の尖がり屋根が、ポツンと見えていたにちがいない。
 佐伯は、「洗濯物のある風景」を描いている最中、当然周辺の様子を見まわしていただろう。そして、同じ上高田にある東光寺の別院となっていた桜ヶ池不動尊の屋根も、まちがいなく視界に入っていたにちがいない。ちょうど、鈴木誠Click!とともに隣りの長崎地域へ出かけて風景画を描いているように、下落合を離れて上高田へと足を踏み入れた・・・という可能性がある。佐伯は地図を見るのが好きで、パリでもアトリエにもどっては作品の描画ポイントを几帳面に確認している。同様に、下落合でも地図を参照しながら制作していた確率が高く、下落合の御霊社Click!下の「洗濯物のある風景」のポイントが、ちょうど下落合と上高田との境界であることも知っていたと思われる。


 以前、東光寺をお訪ねしたとき、たいへんご親切に対応していただき、同寺の境内には佐伯が描いたような堂は存在しなかったが、桜ヶ池不動堂の可能性があることをご教示いただいていた。『堂』の画面を見ていて、左下に描かれているモノが気になっていたのだけれど、石地蔵のようにも人物のようにも見えるこのフォルム、見方を変えると身体を波うたせた龍を正面から眺めたようにも見えるのだ。桜ヶ池不動尊は、上高田に数多い湧水源に建立されている堂なので、もともと水神あるいは龍神を奉っていた聖域ではないかと思われる。現在は存在しないが、昔の地図を参照すると不動堂のすぐ西側に隣接して鳥居マークが確認できるので、少なくとも戦前までは小さな弁天社あるいは稲荷(鋳成)社があったように思えるのだ。現在でも、不動堂の境内には湧水を口から噴き出す龍の像が設置され、周辺から水を汲みに訪れる方たちが絶えない。
 
 
 東光寺の別院ながら、桜ヶ池不動尊には住職がおられるのだけれど、お訊きしたところ大正末ごろの不動堂の様子はご存じなかった。1947年(昭和22)の空中写真を見ると、空襲の被害は受けていないようなのだが、現在の建物はコンクリート造りとなっている。また、いまの桜ヶ池は不動堂のすぐ東側に横たわっているが、もともとは不動尊境内のやや北側、つまり斜面の下段にあったのが同空中写真でも、また当時の地形図でも確認することができる。
 さらに、妙正寺川の護岸・整流化工事で昭和初期に埋め立てられてしまった、旧・下落合5丁目の大池(現在の落合公園西側)の妙正寺川をはさんですぐ西、すなわち「洗濯物のある風景」描画ポイントと桜ヶ池不動堂との間の谷底に、1936年(昭和11)の空中写真を見ると周囲の田畑の灌漑用だろうか、比較的大きな池が形成されていたのがわかる。佐伯はこの池ごしに、対岸の崖線中腹にある不動堂を眺めやしなかっただろうか?
 
 「洗濯物のある風景」の描画位置と、斜面に見える桜ヶ池不動堂との間は、直線距離でわずか150m前後しか離れていない。佐伯の足跡と重ね合わせると、非常に気になる風景の中に位置する「堂」なのだ。どなたか、上高田とその周辺にお住まいの方で、大正末か昭和初期ごろの桜ヶ池不動堂の写真をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか?

■写真上:上高田の崖線斜面に建つ桜ヶ池不動堂の現状で、参道のすぐ右手に池がある。
■写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「洗濯物のある風景」描画ポイントと桜ヶ池不動堂の位置関係。下は、戦前の1/3,000地形図にみる位置関係。
■写真中下:上左は、1926年(大正15)ごろに描かれた佐伯祐三『堂』。「絵馬堂」というタイトルは、後世に付けられたと思われる。上右は、桜ヶ池不動尊本堂の現状。下左は、『堂』の画面左下に描かれたフォルムの拡大。下右は、本堂脇で湧水を吐く戦後と思われる青銅製の龍神像。
■写真下:左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる桜ヶ池不動堂。右は、桜ヶ池の現状。